1 緊張の夏、日本の夏
- 三人は、決心するように、手塚プロがある二階に向かった。
ドアに「手塚プロ」と書いてある。
- 村上が、ドアをノックして開ける。
- いっせいに、こちらに視線をあびせたのは、数人の編集者らしい人たちだった。
「ごめん下さい。山形から来ました。山形漫画予備軍の村上です」
- 村上は、誰にというわけでもなく、挨拶をした。
編集者たちは、
- 「困るんだよなあ。こういう仕事の邪魔が入ると」
- と、いう顔をして三人を見た。
「ハイ、いらしゃい。COMの石井から聞いております。さあ、どうぞどうぞ」
- マネージャーらしき男が応対に出てくれた。
- そして、じかに部屋の奥まで案内してくれた。
「ああ、また遅れるぞ。サンデーさんよぉ」
- 編集者のぼやきが聞こえた。
- ■
- 井上は、急に心配になった。
- 例の夢の件を思いだしたからだ。
夢で、手塚治虫と会った。
- 手塚は頭をペコと下げて挨拶した人なつっこい笑顔が印象的だった。
- よく見ると帽子を被っていなかった。おでこが広く髪は薄かった。
本に掲載されている写真やテレビの手塚治虫先生は、いつもベレー帽を被っているのに、どうして、オレの見た夢の手塚先生は髪が薄いんだ?と、とても気になりだした。
- ■
自然光が窓から入ってくる。
- 仕事場は広い。
- たくさんの机があった。
- スタッフの姿はなく、その分広く見えたのかもしれない。
- 机には原稿用紙や各種ペン、手塚マンガの掲載されている週刊マンガが、それぞれに置いてあった。
ついたてがあり、その向こうに、人影があった。
「手塚先生。山形の方たちです」
- マネージャーらしき男はその人影に声を掛けた。
ついに来た。
- 世紀の瞬間だ。
- 緊張がさらに強まる瞬間だった。
後ろ姿の人物は、巨体を椅子からグラリと起こして立ち上がった。
そして、
- 「いらしゃい」
- そう言って三人の前に立った。
- 圧倒的な存在感を、その人物は持っていた。
- 手塚治虫だ。
- まさしく手塚治虫だ。
- ■
-
-
2 手塚治虫先生との対面
-
村上は思った。
- この目の前の人がいなかったら、今、自分はこんなことをしていなかっただろうと。
物心ついた時、村上は既にマンガ雑誌を読んでいた。
- 兄の影響もあっただろうが、小遣いはほとんどがマンガ本に替わっていった。
こんなおもしろいことをどうやって描くのだろう、誰が描くのだろうと思い始めると、自分なりに調査をはじめた。
- そして、手塚治虫という漫画家が、今日のストーリーマンガの基盤を作ったことがわかった。
- ちょうど、高校に入ったころ手塚は『COM』を創刊した。
- そこで村上は、マンガ同人会を知る。
- さっそく、自ら組織を立ち上げて、県内外のマンガ同人仲間と交流を続けることになる。
- 連絡はほとんどハガキや手紙だった。
- たまに電話を使うが、市外局は料金が高くてめったなことでは使えなかった。
- 地元の酒田を中心に、中高生のマンガを描く者たちが村上のところに集まってきた。
- 同人会は勢いを持って拡大して行く。
COM編集部には定期発行物を送ったり、手紙を書いて情報を提供していた。
- COMからもお礼の返事や手紙が届いたりしていた。
- 活動は外に向けても行なうようになっていた。
高校卒業と同時に、地元の東洋に就職した。
- 自分で働いた収入を、同人会の活動に継ぎこむことになる。
- COMや県内外の仲間に電話をかけたり、軽自家用車で走り回る。
- 自分がマンガを描くことよりも、もっと才能がある若者を育てたり、描くことがたまらなく好きな者たちの活躍の場を作ることに、情熱を傾けるようになっていた。
1969年には、自分たちの作品を社会にアッピールしようと、まんが展の話がでる。
- 半年の準備で、地元デパートを会場に『第一回山形まんが展』を開く。
- その全面協力をCOMが行なった。
- 編集者の秋山満は、村上の情熱に動かされたのが実を結んだ。
手塚治虫の蒔いた種が、ボクたちの活動になっていった。
- その人物が目の前にいる。
- 村上は感無量だった。
- ■
- 手塚はベレーボーを被り、ポロシャツを着ていた。
- 井上は安心した。頭を見ることがなかったからだ。
- ただ想像以上に手塚は大柄だった。
「山形からご苦労様でしたね」
- と、手塚は三人に労いの言葉を掛けた。
「あの、これ山形名産のサクランボです。どうぞ」
- と、素早くたかはしは籠を渡した。
「いやあ〜 ありがとうございます。後でいただきます」
- 手塚はサクランボを受け取りながら腰を折り、たかはしの目を見ながら、ニッコリと頭を下げた。
(手塚治虫先生がオレに頭を下げた。オレはとんでもないことをしたのではないか?)
- と、たかはしは赤面になり、ぼ〜ぜんとなった。
「手塚先生。これはおみやげの梅酒です。疲れたとき飲んで下さい。家のばあちゃんの手作りです」
井上は、サントリーレッドの瓶に入った黄金色の梅酒を渡した。
- 手塚はその瓶を丁寧に受け取り、目の前で眺めながら、
- 「ありがとうございます。じゃあ、後でみんなでいただきます。ありがとう。ありがとう」と、ニコニコした。
- 井上は、梅酒を渡すことで祖母の使いを果したと思った。
- ■
「このたびは、COMのご協力で、二回目の『山形まんが展』を開きます。手塚先生の原稿も展示させていただきます」
- 手短に村上が経過と謝辞を述べた。
「そうそれはたいへんでしょうが頑張ってね」
- 手塚は激励をした。
「出来れば『ぐらこん山形支部』結成に結びつけばいいのですが」
「開催はいつですか?」
「七月 日から三日間です」
「そうか残念だなあ。八月に山形に行くんですよ」
「エエッ!?」
「花笠踊りに漫画集団で行きますよ。漫画展には行けないけど、花笠のときにまたお会いしましょう。ネ、ネ!?」
「本当ですかぁ」
「楽しみにしてますから」
「光栄です」
「これからちょっと仕事があるんで、後ほどまたお話しましょう。そうだ向こうでコーヒーでも飲んで待っててください」
「ありがとうございます」
- わずか十分足らずの出来事だった。
- この間、手塚は誠意を持って三人と話をしてくれた。
- あれも聞こうこれも聞こうと考えていた三人だが、いざ本人を前にすると何も聞けなかった。
- でも、とてもうれしい一時だった。
- ■
- 三人は仕事場を出て、編集者らがいた控え室に案内された。
控え室には、その秋に公開予定の手塚治虫が総監督の虫プロダクション製作アニメラマ(アニメーション・ドラマ)第二弾『クレオパトラ』のポスターがド〜ンと張ってあった。
- 小島功のキャラクターデザインが見事に虫プロ風に描かれて、バタ臭いアカ抜けたアニメを期待させるポスターだった。
「キミたちどこから来たの?」
- と、メガネをかけてた男が声を掛けた。
「山形です」
「手塚センセイのファンなの?」
- と、別の男が聞いた。
「ハイ」
「サインもらった?」
- と、また別の男が聞く。
「漫画展に展示したいので今色紙を渡してきました」
- と、たかはしが答えると、
「そんな色紙は、ほらそこに山に積まれているよ。いいかい、手塚センセイにサインをもらうとしたら、その場だよ。会ったその場じゃないとかかねえよ」
- と、メガネ男が言った。
まったく感じの悪いの男たちだった。
- そこへマネジャーがサンドイッチとコーヒーを運んできてくれた。
「さあ食べてください。お昼だからね」
心遣いに喜んだ三人は、さっそく手を出した。
- 編集者たちは刷り上がったばかりの「少年ジャンプ」を見ていた。
「小室チャンが『ワースト第二部』連載再開だってヨ」
「ほお〜がんばってるじゃないか。手塚プロ出身者で唯一の売れっ子だよなあ」
井上は「あの〜」と恐る恐るメガネ男に声を掛けた。
「何だい?」
「小室孝太郎さんは、ここの出身なんですか?」
「そうだよ。一昨年まで手塚プロでアシスタントしていたんだ。手塚さんと絵がそっくりだろう?」
「あの〜 『ジャンプ』の編集者ですか?」
「オレは『チャンピオン』だよ」
「秋田書店ですね。お願いがあります」
「何だい?」
「サンデーコミックスの製本の件ですが、読んでいると背がまくられていくんです。ほらこんなふうに…。そうするとだんだん本は痛んでくるんです。朝日ソノラマや虫プロ、コダマのように、ニカワでしっかり固めた製本してもらえませんか」
- 食事を済ませてだいぶ経つが、手塚からは声が掛からない。
井上は、編集者たちとすっかり仲良くなって、マンガの話をしていた。
- その会話の中で、井上が、
「そして八月には手塚先生は山形に来るんですよ」
- そう言った瞬間のことだった。
メガネ男はガバッと立ち上がって、井上を指して怒鳴った。
「それの話は本当か!?それは、い、いつなんだあぁ!!!」
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