1 貴重な生原稿
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- 時計の針は午前11時近くを指した。
「そろそろ手塚プロに行かなければ・・・」
- 村上はたかはしに言った。
その言葉が合図のように、それぞれが出発の準備をはじめる。
- 井上は、たくさんのマンガの原稿を唐草模様の風呂敷に包み、紙バックに入れた。
「ヨッ! 東京ぼん太!!」
- たかはしが、井上をからかった。
- 漫談士の東京ぼん太は、唐草模様のブレザーを着て人気を博した時期から、数年経っていたが、笑いを誘うネタとしてはまだまだ通用していた。
原稿を入れた紙バックは二つになった。
「そう原稿料はいくら位になるでしょうね」
- なにげなく、たかはしが石井にたずねた。
「う〜ん・・・そうだねえ。一般出版社だったら250万円以上かなあ。ウチではそんなに出していないけどね」
- 石井が平然と答えた。
「2、250万円!?」(※金額は1970年当時)
- たかはしは、驚きの声を上げた。
- 井上は、震えがおきてきた。
- 「丁寧に扱います。ありがとうございました」
- 村上は、頭を深ぶかと下げた。
村上たちは、石井が米沢で行なう『山形まんが展』に来県してもらうことを確認して、編集室のマンションを後にした。
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2 富士見台
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練馬の富士見台駅に着いた。
- 東京の蒸し暑さで、すでに三人は汗だくになっていた。
(熱い夏だ。この蒸し暑さは米沢の蒸し暑さとはまったく違うぞ。機械的な暑さだ。東京の暑さだ)
井上はこの暑さを忘れないように、体全体で覚えさせようとしていた。
手塚プロは、富士見台駅前の商店街のビルの二階にあった。
「さあ、井上センセイ。待望の手塚治虫大先生に会えるんだぞ」
- たかはしが胸を張った。
「心の準備は出来ているよネ」
- 村上はやさしい微笑みを浮かべて井上に言った。
「・・・・・・・・・」
井上は、ひたすら緊張していた。
- 重い原稿の入った紙バックを持つ手の力も抜けそうな感じだ。
- ついに来た。
- この日がついに来た。
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- 3 小学5年生
小学五年生の時だった。
井上は手塚治虫に、初めて手紙を書いた。
- アニメーション「鉄腕アトム」を欠かさず観ていることや、小さい時から手塚マンガで育ってきたことを。
- そして、アトムを真似て「進め!!キック」という、ロボットを主人公にしたストーリーマンガをノートに鉛筆で描いて、それを同封したのだ。
- キックというロボットは、アトムと同じスタイルだが、頭の角は後ろ髪ひとつだけ立っているのだ。
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手塚は、ハガキで返事をくれた。
- 「おたよりありがとう。マンガもありがとう。楽しく拝見しました。マンガ家になりたいのなら、高校までしっかり勉強をして下さい。マンガばかり読んでいてはいけません。いろいろなことを学んで下さい。それがマンガ家になったとき役立ちます。また、マンガを見せて下さい。待っています。 手塚治虫」
- しかも、人気アニメ『ビックX』を、墨汁とペンで描いて、サインまでしてあった。
井上は飛び上がって喜んだ。
- 家族は「ハジメだったら当り前だ。何も驚くことではない」と、平然としていた。
このハガキを学校に持って行った。
- クラスの仲間は喜んでくれた。
「ハジメ。お前は将来マンガ家だ」
- みんなに言われると、ついつい有頂天そうになりそうになった。
- この話は他のクラスにも広がった。
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6組の、相田由美子という女子から、突然声を掛けられた。
「あなたがイノウエハジメね」
相田は、家業は楽器店営み、小学校には父親がよくピアノやステレオの調整にやってきていたので、相田の存在は他のクラスの者であっても、知らない者はいなかった。
- 相田は、いかにも楽器店のお嬢様という感じで、長い髪には蝶結びのリボンをして、着ているものも、当時としては派手だった。
- とても、井上らが気軽に声を掛けたり、遊んだりできるタイプではなかった。
「あなたが手塚治虫からハガキをいただいたのを聞いたのよ。マンガがとてもお上手なんですってね」
「私の家に遊びに来ない?マンガの話を聞かせていただきたいの」
方言もなく、とても丁寧な言葉だが、語尾はけして優しくなく、女王のような振る舞いだった。
相田は、言うだけいうと井上に返事を確かめることなく、サッサと自分のクラスに帰っていた。
井上は、普段もクラスの女子からからかわれたり、いじめられたりしていたので、女子の横暴さには慣れてはいたが、気心がわからない分、気分が悪かった。
放課後に相田は井上を迎えに来た。
- クラスの男子は井上をはやしたてた。
井上は相田の誘いを断るつもりだったが、先ほどとは打って変わって、
- 「井上クン。さあ参りましょう」
- 優しく手をさし出された。
- 井上はそのまま手をつないで、相田の家に行ったのだ。
相田の二階の部屋はとても大きかった。
- 彼女の母親が、コップに牛乳とたくさんのお菓子を持ってきてくれた。
「宝物だよ」
- 井上は、そう言って手塚のハガキを見せた。
- 相田はびっくりし、そして感動していた。
- 「将来、井上クンはマンガ家になるのね」
井上は、知ってる限りの手塚マンガの魅力を話した。
- 画用紙にたくさんのマンガを描いてあげた。
- 相田はとても喜び、お礼だといってピアノを弾いてくれた。
井上にとってはとても緊張した時間だった。
- でも、「オレとは住む世界が違う」と思った。
- 相田とはそれっきりの付き合いにした。
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テレビアニメ『鉄腕アトム』にアトムの弟、コバルトが登場した。
- それは、頭の角ひとつのキックにそっくりだった。
- 井上やクラスの者たちは、井上が手塚に送った「進め!!キック」から、このキャラクターが採用されたと思った。
それからしばらくして、井上の大切な宝物、手塚治虫からのハガキが行方不明になった。
- 相田も、行方不明となった。
- 家業が倒産し、夜逃げをしたのだった。
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(文中イラスト/たかはしよしひで)
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