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井上は、翌日の放課後には女子高に行った。
正面玄関に入り事務室で中学時代の同級生、中山美智江に面会を申し込んだ。
彼女は新聞部に所属していた。
時折ではあるが下校時に街中でバッタリ会うこともあり、高校生になってからも親しくしていた。
正面玄関で待っていると廊下を行き交う女生徒たちが井上を見るのだった。
それが恥ずかしく井上は顔を下げていた。
どのくらい待っただろうか、美智江が遠くからやって来た。

「どうしたのよ?」
と無愛想に井上に声を掛けてきた。
「漫画研究会を作った。
 会員集めのポスターだ。
 女子高に中に貼ってもらいたい」

井上も無愛想にボソボソと言った。
「ふ〜ん、わかったわ。
 生徒会に頼んでみるから」

井上からは美智江も会員になってほしいと言った。
「アハハハッ……
 私はマンガは描けないわ」
「美智江ちゃんの書いている詩でもいいんだ。
 オレはそれにイラストを描くから、な!?」
「そうかぁッ、考えてみるから」

この美智江が縁結びとなり、後に米沢漫画研究会の会員になり、少女マンガの実力者が登場することになるが、このときはまだ誰も想像しなかった。


「COM(コム)」に米沢漫画研究会の会員募集が掲載されたのが、1969年、それは昭和44年の11月号だった。

その反響は井上らが想像する以上の結果となって、会の結成を盛り上げることになった。
北は北海道札幌から南は大阪まで、「米沢漫画研究会」という名前には相応しくない「全国規模」の会員になっていった。
また、一方では「山形漫画研究会」のたかはしよしひでらの応援もあり、その会からも多くのメンバーが会員と同じ扱いで参加してきた。
力強い仲間の支えに井上は感謝した。

この「COM(コム)」11月号はコムの歴史上名作が掲載されていた一冊だった。
手塚治虫「火の鳥・黎明編」がカラーで巻頭を飾り、石森章太郎「サイボーグ009・神々との闘い編」が新連載された。
連作「トキワ荘物語」の第二作になんと寺田ヒロヲが執筆している。
今も語り草になっている秀作、矢代まさ子「ノアをさがして」もこの号だった。
山形漫画研究会のメンバーだった後藤和子(現・ごとう和)が後にアシスタントになった浅丘光志が短編を発表していた。
岡田史子、坂口尚、滝田ゆうらの珠玉作が揃っていた。

肝心の地元では井上らの情熱が伝わってか、教師からは会長の土肥昭先生の他にも長南幸男先生、先輩からは美術部部長の林敏男、一学年先輩の戸津恵子らが会員になった。
コムとポスターを見て米沢商業高から青木健一、コムを見て長井高から青木文雄、東高卒業生で同校の生徒会長をしていた青木絵里子らが加入してきた。
どういう訳か青木という姓が目立った。

井上は山形漫画研究会の機関誌「ホップ」と肉筆回覧誌「ステップ」を真似して、ガリ版印刷の機関誌「ジュン」と青焼コピー誌・作品集「JUN」を発行することを考えた。
鈴木も宮崎もそれに賛同をした。
記事は主に井上が書くことにした。
しかし、たかはしよしひでのように映画から小説まで幅広い話題がない。
山形漫画研究会は前身が「SFクラブ」と名乗っていたようにSFに関心が強い。
それに比べて米沢漫画研究会は「マンガしかない」。
そこで機関誌にはマンガ界の話題を多く掲載しようと考えた。
井上の自宅では毎日新聞を購読しており、毎日新聞にはマンガ界の話題が多く掲載されていた。
井上はその記事を大切にスクラップしていたから話題には事欠かなかった。

ガリ版の機材は生徒会室にあった。
それを借りることで印刷はできる。
井上らの活動は山形漫画研究会の活動コピーから始まっていった。

会費は現金書留か切手で送られてきた。
毎日、三通は手紙が来る。
そのたびに井上は返事を書いた。
会員の手紙を機関誌に掲載することにした。
作品募集も「ステップ」を真似て、まったく同じ募集要項にした。
あとで肉筆回覧誌にもできると考えた。
毎日、どんどん増えていく仕事の量に驚く暇もなく、井上はコツコツと仕事をこなしていった。
さすがにガリ版切だけは疲れた。
鉄板を下敷きにして、油紙でできている原紙を鉄筆という針状のペンで力を込めて文字や絵を書いていく。
その作業は削っていくといった方が適切かもしれない。
気が付いたら井上はマンガを描いていないのだ。
描く時間が無くなっていた。
「ああ、どうしよう……
 マンガ研究会なのにマンガが描けないなんて」

急に切なくなってきた。

(2006年5月2日 火曜 記)



(文中の敬称を略させていただきました)
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