「日本のテレビアニメもマンガもこれからますます発展していくためには、作家も、スタッフも、会社もしっかりしていかないと、『W3』(ワンダースリー)のような事件というか、スパイ合戦が起きてしまうんです。
このことで誰もいいことはなかったです。
『ソラン』も大ヒットにはならず、いまでは忘れられているじゃあないですか」
と、手塚治虫がしんみりとして言った。
「手塚先生、でも、その結果、『少年マガジン』は劇画家が集合する結果となったんですね?」
井上が言った。
キョトンとした手塚治虫は一瞬言葉を発しなかった。
「そうですね。『巨人の星』とか『無用の介』なんていう劇画と称する貸本マンガからの出身者が活躍することになりましたからね」
手塚は井上に向かって言った。
「でも、その劇画が百万部を突破するような『少年マガジン』を創ったんじゃないんでしょうか」
井上は静かに言ったが、その内容は手塚が必ずしも歓迎する見解ではなかった。
「学生運動や社会不安の中で時代が要求していたんでしょうね」
手塚はひと言そう述べた。
「いまはアンチ手塚みたいな現象が続いていましてね。
手塚のマンガはもう古いとか、いろんなことを言う人がいますが、『火の鳥』は大河マンガの位置を作ったのではないかと思っていますよ」
手塚はしっかりと言った。
「手塚先生が昨年あたりから『別冊少年マガジン』に作品を描いて講談社に復帰したことと、『火の鳥』が第一回講談社出版文化賞児童まんが部門を受賞したことの関連性はあるのでしょうか?」
井上はさらに突っ込んだ質問をした。
虫プロ商事の大村はドッキッとして井上の顔を見た。
手塚は落ち着いて井上の顔を見た。
「講談社の意向はわかりかねますが、マガジンもこのまま行ったらいずれは行き詰まる時がきてしまうでしょうね。
劇画はマンガのひとつのジャングルであって、ひとつのジャンルばかりでは飽きられるときがきます。
なにしろ戦後マンガの原点は児童マンガでしょう!?
マガジンもそのことはよくわかっているからこのたび『講談社出版文化賞児童まんが部門』を設立したのでしょう!?」
「手塚先生、以前は講談社児童まんが賞がありましたね?」
たかはしよしひでが訊いた。
「ありましたね。
講談社の雑誌に掲載したマンガから選ばれていた、いわゆる社内の賞でした。
昨年まで九回かな!?
もちろんボクには縁はありませんけどね(笑)」
手塚は長年小学館の児童誌を中心に活躍していた。
特に少年マンガが週刊化されてからは小学館の「少年サンデー」は講談社の「少年マガジン」を発行部数で大きく引き離していた。
手塚は第三回小学館漫画賞を受賞していた。
「今回の『出版文化賞』は講談社創立六十周年を記念して設立されたものです。
しかも社内外に関係なく優秀な作品に与えられるものです」
自信を持って話す手塚治虫だった。
(2007年12月31日 月曜 記
2008年 1月 2日 水曜 記)
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