42回 サイン会




 井上らはレコード売り場の側にある喫茶室に入った。
 三人はアイスコーヒーを注文した。喫茶室からは丁度真正面にサイン会が見渡せる。
 
「アッ!手塚先生だあ!!」
 鈴木が大きな声を上げた。
 長身のベレー帽姿の手塚治虫がさっそうと現れた。
 同時に階段の列が左右に動き、今度は上下に動いた。

「サイン会が始まった……」
 三人は喫茶室を出て、サイン会に向かった。子どもたちの奇声が手塚治虫を囲んでいた。
「みなさ〜ん、押さないでください!」
 小太りの背広姿の男性が叫んだ。書店の店員も階段に並ぶ人々が押し合いにならないように注意を与えていた。
 
 手塚は黙々と色紙にマンガを描いて、サインをしていた。手塚の側には虫プロ商事の大村が付いて、サインを求める人々にやさしい笑顔で対応していた。

「手塚先生だ!ホンモノだ!」
 鈴木は感動と驚きをそう言って表現した。

 人並みをかき分けて、三人はようやく手塚治虫を遠くから見ることができた。
「……」
 宮崎はどんぐり眼(まなこ)をさらに大きくして瞬きもしないで、手塚を見た。
 井上は手塚の色紙に向かう姿を見て、あの手塚プロでの手塚治虫先生の後姿を思い出した。
 それは広い制作室で、電気も付けず太陽光線だけの明かりの中で、ひとりコツコツと原稿を描く手塚の猫背の後姿だった。
 あの時は、ボクと手塚先生のふたりきりの瞬間だった。
 そう、井上は心の中で言った。
 手塚先生は孤独で体全身を振絞って原稿を描いていたように思えた。

「スイマセンが火の鳥とレオは時間がかかるのでご遠慮くださ〜い!」
 小太りの男性と大村が並んでいる人たちに向かって言った。
 鈴木が、
「オイオイ、手塚先生はリクエストに応じて直筆でマンガを描いているぞ!すごいなあ……」
 と、驚いた。
「滅多にないことだなあ。今日の人は得したなあ」
 と、宮崎が言った。
 
 手塚は一人五分位で色紙にマンガとサインを描いた。それを受け取った子どもや親はさらに手塚に握手を求め、礼を言って去るのだった。いづれも色紙は大事に抱き締められていた。誰もがその光景を羨み、目で後追いをするのだった。
 十人、二十人とサインは終っていく。しかし、手塚の描くペースは衰えない。
 
 井上は手塚が使っているぺんてるペンとぺんてるサインペンに注目をしていた。
 ペン先からは、魔法のようにすらすらと線が湧き上がってくるように絵を描いていく。その技術がおもしろく、すばらしく見とれてしまうのだった。
 
「火の鳥をお願いします」
 女子大生に見える髪の長い少女が言った。
「ごめんなさいね。火の鳥はご遠慮願っているんです……」
 小太りの男性スタッフが言った。
 しかし、
「アッ手塚先生!もう描いている〜ダメですよ〜先生……時間がかかるから……」
 スタッフが断るよりも早くに、手塚の手は色紙に火の鳥を描いていた。
 火の鳥の頭を描き、長い首をス〜ッと描く。
 そして胴体に向かう。
 そして左側の翼を大きく描き、右側の翼は一部胴体に隠れるように描いた。
 長い脚に大きな足で絵としての安定をつけた。 
 流れるような線だった。火の鳥が色紙の中から羽ばたくような、すばらしい火の鳥だった。
 
 手塚のマンガの描き方を、身近に見られただけでもとても勉強になった。まさに手塚は……、
「神の手だ!!」
 井上はそうポツンと言った。
 その瞬間、手塚は井上を見た。
 目と目が合った。
 井上の全身に電気が走った。
 オレの言葉が手塚治虫には聴こえたのだろうか。それともオレの視線を感じて見たのだろうか。
 井上にはそう思う一方で、そんなことより、
 マンガの神様 手塚治虫の神の手の技をこの目で見ることができたことと、目と目が合ったそのことだけで満足だった。



(2007年 3月21日 水曜 記
 2007年 3月22日 木曜 記)




(文中の敬称を略させていただきました)
暑い夏の日第42回

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