サイン会の長蛇の列は絶えることはなかった。
手塚治虫はファンのリクエストに応じて色紙にマンガを描き、サインをして、握手をする。その一人のファンにかかる時間を気にする関係者たちは、もうイライラしていた。それもそうだ。かれこれ一時間をゆうに越していたからだ。
「みなさ〜ん。これにてサイン会の受付は終らせていただきま〜す!ありがとうございました」
八文字屋書店の店員が大きな声で言った。そうは言っても既に受付を終った者たちだけでも五十人以上はいるだろうか。
「先生!手塚先生。このままですと、予定時間になってもサイン会は終わりません。何とか早くお願いします」
小太りの男性はそう言って、大村に目で合図をした。
大村は手塚のサイン会を見守る井上たちを見つけて、
「井上クン。申し訳ないけど約束の時間を三十分ほど、いや一時間ほど延ばしてもらっていいですか?」
と、申し訳なさそうに言った。
「ボクたちはかまいません。こうやって見ているだけで勉強になります」
ありがとうと大村は言って、小太りの男性に話しかけた。そして手塚にもそのことを伝えたようだった。手塚はうん、うんと頷きながら井上らの方を見て、ニコッと笑顔で微笑を返すのだった。
井上も鈴木も、そして宮崎も、目が点になって気をつけをした。三人の背筋がピーンと伸びると同時に汗がス〜ッと引いていった。
「手塚先生がオレたちに微笑んだぁ……宮崎……夢じゃないよなあ」
鈴木は焦点のさだまらない目をしながら言った。
「夢じゃない……オレも見た。なあ、井上?」
口にこもったような声で宮崎が言った。
井上は黙って頷いた。
時間はどのぐらい経っただろうか、大村が再び三人に声をかけてきた。
「どうもすいませんねえ。もう少しなのでみなさん、喫茶室でお好きなものを注文してお待ちください。ほんとうにすいませんね」
そして井上の耳元で、
「ファンの人が手塚先生を追いかけてくるといけないので、先に行っててください。手塚先生はいったん控え室に行き、ファンがいなくなったところで喫茶室に行きます」
と、言って、三人がすぐにも喫茶室に消えることの指示をするのだった。
時代の人、手塚治虫先生の偉大さゆえに、井上はファンの心理がよくわかっていた。
自分たちだって、たまたまなにかの間違いでこの場にいるだけで、サイン会に並んでいるファンらとはなんら変わりない。
それよりも、自分たちがいつの間にかファンの立場からプロの世界に足を踏み込んでいるようで、それが夢のようだった。
このまま手塚先生に連れて行かれるのじゃないか……そんな錯覚すら感じる井上だった。
「お待たせしました!」
その声で現実に引き戻され、後ろを振り向いた三人だった。
(2007年 3月23日 金曜 記)
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