昭和漫画少年時代


鉄腕アトムは空を越えて!

画像をクリックすると拡大画像をご覧いただけます

「アトムだ!」

太志(ふとし)くんのパラパラ漫画は手塚治虫の「鉄腕アトム」でした。
しかも、テレビアニメ版のアトムそのままだったのです。

『鉄腕アトム』は、前年の昭和38年(1963)1月1日からフジテレビ系列で放送が開始されていました。
日本で初めての本格的なテレビ漫画(テレビアニメーション)だったのです。
モノクロ作品でしたが、劇場でしか見る事が出来なかった漫画映画を、家庭のテレビで見ることが出来るようになったのです。
これは、後に昭和41年(1966)の『ウルトラQ』で、やはり怪獣映画をテレビで見ることが出来て、その年から空前の怪獣ブームをもたらした状況とも似ています。

その『鉄腕アトム』は、やはり時代に支持され、視聴率30%を越す超人気番組となりました。
でも、ここでボクの気持ちを正直に言えば、ボクは人間臭さのある『鉄腕アトム』よりも、同じ少年雑誌『少年』に連載されていた横山光輝のロボット漫画『鉄人28号』の痛快さの方が断然好きでしたから、アトムのアニメ化には初めはそれほどの興味を示さなかったのです。

しかし、この『鉄腕アトム』のアニメ放送を見て、たちまちその虜になってしまいました。
いままで止まっていた絵が、そのままで動き出したのですから驚愕しました。
外国のアニメには違和感のあったボクに、『鉄腕アトム』はすんなりと入ってきたのです。
そして、いまさらながら『鉄腕アトム』という作品の奥深い魅力に気が付いたのでした。
以来、ボクは今日まで手塚治虫は日本の漫画の原点であるという認識を持って、その一連の作品のファンになってしまったのです。

さて、その昭和38年(1963)10月からは大好きな『鉄人28号』、11月からは平井正作原作、桑田次郎作画のこれまたファンだった『エイトマン』もTBS系列でアニメ化されるなど、空前のテレビアニメブームとなります。
後に日本の文化のひとつとして世界に認識されるまでになるその先駆けとなりました。

ボクは当時放送されていた作品はどれも大好きでした。
しかし、放送当時はまだ山形の放送局ではネットされていなかったのです。

自宅の上に高いアンテナを立て、はるばる山を越えてくるよその県の放送番組がきれいに映る近所の子供の家に行って、それを見せてもらっていました。
しばらくしてからはようやく地元でも放映されるようになったり、あるいは再放送されたのを見て楽しんでいたのです。

太志(ふとし)くんは、
「オレは手塚治虫ば、「天才」だと思ってる。
 ものすごく尊敬してっからよ。
 今の漫画はほとんど手塚治虫の真似をしていると思ってんだ。
 んだべ(そうだろう)?
 なんた(どうだ)?・・・」

そうはいわれても、これまでボクはそんな事は考えた事もなかったから、
「難しくて、オラわがらね(わからない)。
 横山光輝や桑田次郎なんかは、手塚治虫とは違うと思うんだげんど・・・」

「んだかした(そうかい)、まだ子供だがらな・・・。
 ま、いいっだな(いいよ)」

「(って、太志(ふとし)くんだって立派な子供だべした)」
と、ボクは心で思っていました。
そんなボクの微妙な表情の変化にも気が付かない様子で、太志(ふとし)くんは続けます。

「このアトムだげんとよ、前の所でもテレビのアトムをよく見せてもらっていだがら、それば真似して描いたんだ」

と、言い、さらに、
テレビのアトムは、漫画映画と違って動きが少しカクカクしているんだげんと、その代わり動きがわかりやすいべ。
 これだったらオレにもでぎっがな(出来るかな)って思たのよ」

なんという鋭い観察力なんだろう。
思ったって、なかなか動画なんて描けるものではないのに・・・。

「太志(ふとし)くんのパラパラ漫画は、テレビのアトムそのまんまみだいだじぇ。
 たまげだばあ・・・」

ボクは太志(ふとし)くんという少年のすごさに圧倒されながら、何度も何度も繰り返してそのパラパラ漫画を見ていました。

やがてボクらの話を聞きつけた級友達が、周りに集まってきて人だかりが出来てきました。


(2008年7月16日記)



※この作品はほとんど創作ですから、年代などずいぶんあてになりません。
文中の登場人物も仮名ですが、実在される方の敬称は略させていただきました

ボクと漫画大将第5回  

回へ 回へ

トップページ

懐かし掲示板に感想や懐かしい話題を書き込みをしてください。

漫画同人ホップのコーナーへ戻ります

トップページへ戻ります
inserted by FC2 system