作・なかにし悠


山形漫画予備軍誕生

 村上彰司……現・山形漫画予備軍本部長。
 彼はもともと大のマンガファンだった。
村上はマンガを描きたい一心で酒田に就職した。

 昭和四十一年九月二十日
 友人斎藤茂と二人だけの漫画研究会「桐一葉」を結成した。
この漫研では「ビッキ」という同人誌を発行したいた。
 
 昭和四十一年十二月に異色のマンガ専門誌が創刊される。
それが「COM(コム)」だった。
 発行は手塚治虫の「鉄腕アトムファンクラブ」の「虫プロ商亊」だった。
 当然、「手塚治虫先生の会社」として注目を浴びた。
 創刊号の表紙は社主・手塚治虫の「火の鳥」黎明編のイラストがだった。
「まんがエリートのためのまんが専門誌」という、妙に高慢とも思えるキャッチコピーが表紙を飾り、商業マンガ誌との区別が感じられた。
「COM」という名前は、COMICS, COMPANION, COMMUNICATION の共通の「COM」からもじられた。
 主な執筆陣と作品は手塚治虫「火の鳥」、石森章太郎「ファンタジーワールド・ジュン」、永島慎二「青春残酷物語」、出崎統「悟空の大冒険」。
マンガの他には文芸評論家の尾崎秀樹の「座談会 まんが月評」や草森紳一「戦後まんが主人公列伝 」。
 そしてマンガ家の新人募集と「ぐら・こん」のページと続くのだった。
 「ぐら・こん」とは、「グランドコンパニオン」の略称だった。
 新人マンガ家の発掘のためのコーナーであった。
そこには相当数のマンガ家志願者や、同人誌で活躍していたアマチュアマンガ家たちが投稿して腕を争っていた。それは一コママンガからストーリーマンガまで幅広く、描きたい物を描くという制約の少ない表現の場となっていた。
 また同人誌へのページも割いてあり、会員募集や同人誌批評が主となっていた。
 この頃はベトナム戦争や公害問題などで、大学紛争と政治闘争が社会の常となっていただけに、「描きたい物を描く」という表現手段は、マンガ家志望者や同人誌マンガ家たちには歓迎されることとなる。
 
 村上彰司も運命のように、この「COM」と出合う。
 村上も斎藤もこのCOMのぐら・こん「まんが予備校」に投稿をする。

 村上はマンガを描くことも好きだったが、COMと出合ってからというものは、全国各地にある「漫画研究会」と称する、同人会に注目をするのだった。
 そして、同人会の活動紹介に漫画研究会「桐一葉」と同人誌「ビッキ」も登場する。
 
 昭和四十三年一九六八年九月二十三日
 村上は隣県の宮城県仙台市の東北学院大学構内にいた。
COM主催の「まんが風土記宮城の巻」に山形県からただ一人参加していた。
 ここで「ぐらこん宮城」が結成された。
 当時のぐらこん支部結成で「県単位」で結成されることは異例だった。
それは関東、関西という地方単位の結成だったからだ。
 村上は宮城支部結成を目の当たりに見て、興奮して夜汽車に乗った。
「出来る!!」
 村上はそう確信した。
 そう、「ぐらこん山形支部」を作ろう!!!
自分のこの手で……村上の野望がメラメラと湧き起こってくるのだった。
 しかし、村上が知っている山形県内のマンガ同人会は二つだけ。
自分の漫画研究会「桐一葉」と山形市近辺の中山町長崎の「SFクラブ」だけだった。
 もっと山形県内にもマンガ同人会はないのだろうか。
マンガ家志願者はいないのだろうか。
 村上は焦りと野望で一睡もしないで夜汽車で酒田に帰るのだった。
 
 昭和四十四年一九六九年一月一日 同じ酒田消印で一通の年賀状が届く。
 差出人は「酒田市・曽根啓視」。
「ソネ・ケイシ?」 
 後にそれは「ヒロミ」と読むことがわかった。
 曽根啓視は同じ酒田で「セーヴ」というマンガ同人会を組織していた。
しかも、全国組織だった。
 村上と斎藤はそれを知ると早速曽根の自宅を訪ねた。
 曽根は学生服をきちんと着こなし、バリバリの硬い髪を頭の真ん中から分けて、メガネをかけていた。
そのメガネの奥の目はとても神経質そうで、インテリ風なせっかちな話し方だった。
 村上が「ぐらこん山形支部」結成案を話をすると、曽根の口からは酒田にあるマンガ同人会の名前がどんどん出てきた。
「セーヴ」に、「モーゼル」、「SAINT」、「PHB」など、村上や斎藤らより若い高校生たちが中心のマンガ同人会だった。
 おそらく山形県の中でも、数と会員の多さは県内一だろう。
 村上は早速、翌日から酒田の各マンガ同人会の会長を訪ねた。
 会って話を聞くと、どの同人会もマンガの作品そのものはまだまだレベルは低い。
それに運営に時間がとられ、作品を描けないのが各会長らの共通の悩みでもあった。
漫画研究会「桐一葉」を組織すると、会の運営や機関誌作りなどが中心となり、なかなかマンガそのものを描く時間が失われていった。
「みんなも同じ悩みを持っているんだ」
 村上はこれを打開して、好きなマンガを描く時間を作れるようにするには、酒田市内の小さな同人会をひとつにすること、そして、年長者のボクが会の運営を一気に引き受け裏方に徹することで、多くの若者たちがマンガを描き、同人会のレベルアップやマンガ家を志すようにしようと考えるのだった。
 
 昭和四十四年一九六九年三月三十日 
 村上の温厚な人柄もあってか、村上の主旨は快く理解され、酒田のマンガ同人会はひとつに結集された。
 その名は「山形漫画予備軍」だった。
「第一回山形漫画予備軍のつどい」が酒田市中央公民館で行われた。
そこに祝電が届く。
「ぐらこん宮城支部長 高橋修」
 これを機に村上の野望は本格化していった。



(2008年 8月17日 日曜 記
 2008年 9月 6日 土曜 記)




(文中の敬称を略させていただきました)

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