作・なかにし悠


初めての旅

一九七〇年…昭和四十五年七月五日・日曜日
ここは山形県米沢市。
福島市と会津を隣接した盆地の町である。
人口は九万数千人の上杉の城下町だ。

この日は早朝から晴天だった。
長屋の一角から家族たちの大きな声が聞こえる。
「忘れ物はないかい!?」
 六十歳をわずかに過ぎたというのに、歳よりも十歳は老けて見える着物の姿の井上ふみの声だった。
「大丈夫!!
だけど、梅酒が重たいなあ」

 そばかすとニキビが目立った顔の少年は言った。
「だって天下の手塚治虫先生に会うんだから、
ばちゃんはおみやげをちゃんと用意したんだべ」
「梅酒なんて飲むかなあ?」
「からだにいいんだから、ばあちゃんが作った特性の梅酒だって飲ませろ!」
「わかった、じゃあ、行ってきま〜す!!!」

 白いワイシャツの両腕を肘まで上げて、黒い学生ズボン少年は重そうにザックを肩に掛けた。
 少年は痩せていて、ヒョロヒョロして頼りなさそうな感じだった。
 そう、少年はこの物語の主人公の井上はじめ。
まだ高校二年生だった。
 彼はマンガを描いていた。
そしてマンガ同人会を組織していた。
 井上は胸を張って堂々と長屋の並びを歩いていた。
「はじめちゃん!?
いよいよ行くんだね」

 井上の向かいの三軒長屋のまだ二十代後半の多田秀雄が声をかけた。
「ハイ!行ってくっからね」
 井上は元気にそう答えた。
「手塚治虫先生のサインをもらってくれよな!?」
 多田はランニングシャツにタオルを肩にかけて、歯を磨きながら言った。
「多田さん、手塚先生に会えるかどうかもわからないんだもん」
 井上は立ち止まって、多田にそう言った。
「大丈夫だ。
山形からわざわざ訪ねて行くんだから、会ってくれるさ」
「だと、いいんだげど……」

 井上はポツンと言って、青空を眺めた。
 

 青空に鉄腕アトムが飛んできた。
 そのアトムが地上に降りてきた。
そして、単行本にアトムが重なった。
「鉄腕アトム」第一巻 光文社……

「はじめ!
ほら鉄腕アトムだ!!
おもしろいぞ〜」

 男性の声がそう言った。
「パパッ!
赤胴鈴之助を読んで!!」

 幼児の井上はじめがそう言った。
「パパは、鉄腕アトムがおもしろい。
アトムを読もう」

 顔が暗くて見えない男性は井上はじめの父だった。
「あなた、はじめの好きな方を読んでやったらいいのに。
どうして意地悪いうの?」

 丸顔の女性の声だった。
「だって、赤胴鈴之助は勧善懲悪でつまんないよ。
その点、手塚治虫のマンガは絵もしっかりしているし、内容がとても緻密に描かれているんだ」

 父親がそう言った。
「それはあなたの好みでしょ?
はじめはまだ幼いんだから、あなたのように理解できないわ」

 そう言ったのは、丸顔で目の細いはじめの母親だった。



(2008年 5月 1日 木曜 記
 2008年 5月 2日 金曜 記)




(文中の敬称を略させていただきました)

熱い夏の日・第一部

山形マンガ少年 東京騒動記第1回  

第2回にご期待下さい!!
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