21コボタン

1 新宿 

「しん〜じゅ〜く、しん〜じゅ〜く、新宿です」

 電車の内外から駅員の鼻を摘まんだような声が響いた。
 ドアが開くと人の波が電気掃除機で吸い取られるゴミのように勢いよく出て行った。
 井上も自分の意志とは関係なく、身体が外へ吸い込まれていった。
 そしてようやくホームの柱の所で開放された。
「井上クン。大丈夫かい」
 村上がやさしく声を掛けた。
 3人とも身体中汗でびっしょりだった。
 ホームでゾロゾロと歩く人の波の真中で3人は次の行動を確認しあった。
「もう午後5時近いから軽い食事をしながら名所で休憩だ」
 村上が提案した。
「コボタンでしょ?」
 たかはしが確認した。
「あのCOMで広告をよく見るマンガ喫茶コボタンか」
 井上は汗が額から顔に流れても拭おうともしないで、この東京で次々に体験する出来事が物語のように思えてきた。


 『コボタン』とは「日本で初のマンガ喫茶」としてマンガマニアには有名な喫茶店だった。
マンガ本がたくさんあり、マンガ原画展もちょくちょく行なっていた。
それも度々「COM」に広告が載っていたので、上京した時には一度は行ってみたいマンガマニアにとっての名所だった。

 そこは意外に小さく地味な喫茶店だった。
 住所は新宿2−60と表示されていた。
「ギャラリー喫茶コボタン」は店内が細長く、席は20席があるかないかぐらいだった。
 井上は地元の行き付けの喫茶店「それいゆ」に似ていると思った。
 店内に入って奥に向かって右側が壁になっていて、壁にはCOMからマンガ家デビューした岡田史子の原画が額に入って数点展示されていた。
 入口右側手前にはマンガ新書版や雑誌が置いてあった。
 左側は大きな窓で、道路を歩く人や自動車が頻繁に交差するのが見えた。
 村上ら3人は右側の真中頃に席をとった。
 すぐに長い髪の痩せたウエイトレスが水を持ってきた。
「あれ?ここのウエイトレスはミニスカートですョ」
 たかはしが言った。
「それがどうしたの?」
 村上が聴き直した。
「今朝から喫茶店や食堂のウエイトレスはみんなスカートがロングか普通の長さだったので、てっきり東京のウエイトレスはそうなのかと思ったら、この店だけミニスカートなのでびっくりしたったなあ」
 たかはしが答えた。
 村上がレジの側に立つウエイトレスを振り返って見た。
(化粧も濃いなあ)と思った。
 この喫茶コボタンは今はやりの前衛的なのだろうと心でつぶやいた。
 井上は席を立ちマンガ単行本を手にした。
 並んでいたコミック単行本の中でも、コダマプレス発行の手塚先生の「新撰組」は一番分厚く目に付いた。
 後は集英社や小学館という出版社の違いはあっても「忍者武芸帖」、「サスケ」、「狼少年」などがズラ〜と並んでいる白土三平の単行本が一番多くかった。
 その次は永島慎二と石森章太郎のマンガだった。
 この二人の単行本は朝日ソノラマの発行が目立つ。


(どうして手塚マンガが少ないのだろう? 例えコミック単行本でなくとも、テレビマンガの影響で光文社や小学館からはB4判のコミック誌がたくさん発行されているのに・・・)
井上は不思議に思うのだった。

 一方では「ガロ」や「COM」が並んでいた。
 そして「少年マガジン」と「朝日ジャーナル」が隣同士で並んでいた。
 このコボタンに置いてあるマンガは、青年マンガや社会性のあるテーマをストレートで描いてあるものが中心であった。
 時代がそれらを要求していた。
 手塚マンガは明らかに児童マンガであり、大学紛争が下火になったとはいえ、今の時代にはそぐわないマンガ家になりつつあった。
 しかし、手塚マンガはもがき苦しみながらも「火の鳥」や「きりひと讃歌」という現代時代にも受け入れられる大作を生みだしていた。
 後に「火の鳥」は「COM」の目玉作品になり、「ガロ」の白土三平の「カムイ伝」と二分する人気の大作に仕上がっていった。
 特に手塚マンガで育ってきた「この頃の大人たち」にはうって付けの作品として受け入れられていた。


2 COMとの出会い 



 「COM」創刊号があった。

 井上はその場で立ちながら、懐かしく創刊号をめくった。

 井上が初めて「COM」と出会ったのは中学1年生の1966年(昭和41年)12月のことだった。
 米沢市の粡町(あらまち)の本間書店でこの雑誌を発見した。
「丸」や「ボクシング&プロレス」などの雑誌と一緒に、たった一冊だけその雑誌は置いてあった。
 弥生時代を想わせる青年マンガ風人物に奇麗なマンガチックの鳥が描いてある表紙だった。
 その作者が手塚治虫と分かるまでは時間が掛かった。
 児童マンガから完全に脱皮した作風だったからだ。  
 雑誌のタイトルには“まんがエリートのためのまんが専門誌”「C・O・M」と書いてあった。
(なんと読むのかなあ?)
 井上は雑誌を手に取った。
「COM」の「O」の中に「こむ」と平仮名が振ってあった。
 表紙の裏には手塚先生の創刊のメッセージが書いてあった。

「COMとは……COMICS、COMPANION、COMMUNICATIONの略」と書いてあった。
(変な雑誌名だなあ)井上は呟いた。
「エッ何かご用ですか?」
 レジの奥から店主が声を掛けてきた。
「いや、何でもないです」
 そう言って雑誌を置いた。
 そしてすぐ外へ出た。


 一週間たった頃、井上は学校帰りに書店に立ち寄った。
 するとたった一冊の「COM」は、まだ売れ残っていた。
 井上は手に取りパラパラとページをめくった。
 雑誌全体から古めかしい雰囲気が漂った。
 2色刷りの「火の鳥」のタイトルが大きく目に入った。
(手塚治虫先生のマンガだ)
 しかし、井上はその絵を見てすぐ読む気にはならなかった。
(これは長編マンガだな)
 直感したからだ。
 当時は、長編マンガの場合はテーマが重たく、ストーリー展開もゆっくりしていたので、月刊誌連載の十数ページでは読み応えが感じられなかった。
 週刊誌の連載になれていた者にはなおさらだった。
 「少年」に連載中の白土三平の「サスケ」もつまらなく思っていたが、後に集英社から単行本になるといっきにそれを楽しんで読んだ。
 井上は「長編は単行本に限る」と思っていたのだ。
 テレビマンガの「悟空の大冒険」が出崎統のマンガで掲載されていた。
この「悟空の大冒険」は、テレビマンガ「鉄腕アトム」の後番組として放送されていたが、ギャグ満載のこのマンガ映画は今ひとつ人気がなかった。
 マンガもアニメに忠実な描き方で飛ばして読んでしまった。
 唯一目を引いたのは石森章太郎の「ファンタジー・ワールド・ジュン」だった。
 セリフがほとんどなく、石森の「おてんば天使」を愛くるしい少女仕立て上げ、中性を想わせる青年との出会いから別れを描いていた。
 ベタが多く、ペン画タッチの背景や静物が独特の雰囲気をかもしだしていた。
 マンガ雑誌にしては、マンガは地味だった。
 紙の質や活版文字がこの雑誌を古めかしくしていた。
 井上は買うのを止めた。
 そして石森章太郎の「続マンガ家入門」を買った。

(文中の敬称を略させていただきました)

はじめちゃんの東京騒動記第21回 
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