1 車中にて
- 夜汽車に乗るのは、この時が初めてだった。
- 酒田駅から上越線で上野駅に向かう。
- 午後 時に「 号」は出発した。
村上彰司、たかはしよしひで、井上はじめの三人は、ドキドキしながら電車の動きに注目した。
まるで、月に向かうアポロの乗務員のように、大きな使命をもって旅立つ、そんな緊張感が三人の顔には現われていた。
ガッタン ゴットン ガッタン ゴットン
線路のつなぎ目と、車体の揺れる音が車内に響く。
しばらく無言が続いたが、駅や民家の灯りが見えなくなるころから、たかはしが話を始めた。
「チョコレートなんたっス?明治のミルクチョコレートっス」
たかはしが、こげ茶に金文字のパッケージの板チョコを差し出す。
「わぁ 俺これ好きなんだ。ケサちゃんの味なんだなあ」
そう言って、井上がチョコレートに手を出す。
「ケサちゃんって井上くんの彼女かい?」
村上が訪ねる。
「ケサ子って、死んだ母親です……」
一瞬の沈黙があり、たかはしが、
「……。このチョコレートは、プレゼントなんだホレ」
それを受けるように、村上が、
「たかはしくんってもてるんだノ」
「それほどでもあるよ……」
いつも、冗談とも、本気ともとれないたかはしの言葉に、その場の緊張感が和らいでいった。
それでも、興奮にも似た気持ちの高まりは、あいかわらず続いていた。
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- 「村上先生。提案があるんだげんと。冗談じゃなくて、みんな『せ・ん・せ・い』って読んでだめだべがね?」
たかはしの提案に、村上と井上は照れながらも「いいんじゃないか」と答えた。
「よし!! 村上先生、井上先生だぞ。いずれみんなはマンガ界で生きていくんだから、態度だけはぶあーっと、大きくして行こう」
まるで、当時流行が下火になった無責任男の植木等のようである。
たかはしは、植木等の無類の大ファンだったから、それもいた仕方あるまい。
「ちょっと、たかはしさん、いやたかはし・セ・ン・セ・イ。俺はマンガ家にはならねェ」
井上が慌てて言う。
「俺も仕事があるからノ」
村上も続けて否定する。
「何をゆってんの。人生は成り行きと勢いだじぇ。今、我々は勢いだけはあるんだよ。みんな、どんな人生になるかなて、わかんねぞ」
もともと、はったりかまして後先考えずに生きてきたのだ。
- たかはしよしひでは、威勢よく言った。
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- 夜中になって、電車の中はすっかり静まっている。
- 乗客はそこそこいたがほとんど眠っていた。
しかし、三人は眠れない。さらに話は続いて行く。
雄弁なたかはしが、話題を提供した。
- 山形漫画研究会の機関誌『ステップ』の話や、その中に必ず掲載されている怪獣のオリジナル特撮写真の話。映画の話。
- 気がついたら、テレビやアニメの主題歌を合唱していた。
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- 井上は、最近見た夢の話をした。
手塚治虫と会った。
手塚は、頭をペコと下げて挨拶した人なつっこい笑顔が印象的だった。
- よく見ると帽子を被っていなかった。
- おでこが広く髪は薄かった。
井上が手塚漫画に出会ったのは赤ん坊のころからだった。
父親は山形の県庁に勤務していた。
- 米沢の自宅から山形まで汽車で通勤していた。
- その時間はおよそ約1時間で、この間父親はよく手塚漫画を読んでくる。
- だから、井上は、光文社版『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』などの単行本は、すでに物心がついたときには手にとって見ていた。
そして、いつしかマンガを描くことも始めるのだった。
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- 外は真っ暗で、電車はどこを走っているかもわからない。
- 興奮していた三人も、話疲れたのか誰ともなく静かになっていく。
- そして、いつしか眠りについていった。
それでも、夜行列車は、三人の少年の憧れと夢を乗せ、闇夜を突いて明日に向かって走っていた。
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- ガッタンゴットン ガッタンゴットン ガッタンゴットン
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電車の音が大きく聞こえてる。
- 村上はこの音で目を覚ました。
外は小雨が降っていた。
- 上野が近づくと、この雨はどんどん強くなっていく。
「あ、朝だ…」
「…雨だ…」
たかはし、井上も外の明るさに気づき、目を覚ました。
30年過ぎた今でも、雨が降るとたかはしは、時折その列車から見た情景を思い出すという。
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2 上 野
- 「う〜えのお〜 う〜えのお〜」
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午前 時 上野駅に着いた。
とりあえず、上野駅構内で朝食を食べる事にした。
- まだまだ早い時間なので、どこにも行けない。
井上は、食堂の公衆電話から、職業別電話帳を持ってきた。
「何すんだや?」
と、たかはしが尋ねた。
「手塚先生の、電話番号を調べている」
「手塚プロならわかるけど」
「朝が早いから、自宅に居るかと思って、自宅の電話を調べている」
「なるほど」
「あった。練馬だね」
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- さっそく井上は、公衆電話に10円硬貨を入れる。
- ドキドキしながらダイヤルを回した。
「ツーツーツー」ベルが呼ぶ。
- コール三回目で、
「ハイ、手塚でございます」
女性の声が応えた。
とても落ち着いた声だ。
- 井上は手塚治虫の奥さんであることを、この声で確信した。
「手塚治虫センセイのオ、お宅でしょうか?」
「ハイ、そうです」
「僕は、山形から上京してきました井上といいますが、手塚センセイはご在宅でしょうか?」
「申し訳ございませんが、留守でございます。事務所におりますが・・・」
「ハイわかりました。どうも朝早くからスイマセンでした あっ、それから・・・」
「ハイ?」
「あの失礼ですが・・・」
「ハイ?」
「手塚センセイの奥さんですか?」
「ハイ、さようですが」
「どうも、ありがとうございました」
受話器をそっと置くと、井上には笑顔がこぼれてきた。
- 公衆電話から一目散に村上たちのテーブルに走った。
「ヤホ−ッ、お話したぞぉ〜!」
「手塚先生はいたのかい?」
村上が尋ねた。
「奥さんです」
井上が言うと、
「オ・ク・サ・ン? 奥さんと話してどうすんのや」
呆れるたかはしだった。
しかし、井上は何となく心が暖かくなってきた。
- あの憧れの手塚治虫の夫人と話ができたのだ。
しかも、手塚夫人は丁寧に相手をしてくれた。
「本当によかった。手塚先生の奥さんが立派で本当によかった」
何でこんなに喜びがおきるのだろうか。
- 井上は立派な奥さんであることがとてもうれしかったのだ。
そして東京に来た実感が湧いてきた。
「ウン!やっぱり東京だあ!!」
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