作・なかにし悠


中村先生

 急行「千秋一号 もがみ」が新庄駅に着いた。
 ここから電車は二つに分かれる。
「千秋一号」は奥羽本線を北上して青森へと向かうが、「もがみ」号は陸羽西線経由で羽後本荘へ行く。
「酒田、秋田方面の方は一号車二号車のもがみにお乗りくださ〜い」
 と、何回もアナウンスされた。
 二号車に乗っていた井上は、車両ドアの上に掲示されてある号車数を確かめた。
 電車が二つに分かれて出発する間に、乗客は少し増えてきて、車両の三分の一くらいの人数になっていた。
 井上はザック袋からハンカチに包まれた大きなおにぎりを二個取り出して、大きな口を開けてパクついた。
 海苔で包まれたおにぎりの中には、塩辛い大き目の鮭の切り身が入っていた。
もう一個には、甘いたたき梅が入っていた。
 おにぎりは祖母のふみが握ってくれた。
「暑い夏だから駅弁や弁当は危ない。
玉子焼きは食べるなよ」

 と、ふみは塩分の強いものと梅をおにぎりに入れた。
「だから今日はおにぎり二個、おかずはなしだ。
足りなかったら酒田についてからきれいな食堂で食べなさい」

 季節や状況に合せておにぎりやおかずを工夫するふみの弁当は、中学、高校でも井上の自慢だった。
 二個の大きなおにぎりを食べ終わると、口の中には海苔と鮭と梅干、そして塩の辛さが残った。
 水分がほしい、と、口の中を舌でなめ回した。
「日帰りだったら熱いお茶を魔法瓶の水筒に入れてあげるけど、足掛け三日間の旅だから水分はサイダーとかファンタにしろな!?
生水は腹痛になるかもしれないからやめろ。
東京の水はプ〜ンと塩素の臭いがすっから、食堂でもあまり飲むな」

 と言った、ふみの言葉を思い出した。
 売店からファンタを買おうと立ち上がった瞬間に、電車が動き出した。
急行「もがみ」として酒田に向かった。

 井上はいつ頃からマンガを描き始めたのかと考えた。
 幼稚園のときも、小学校一年二年のときも、楽しくマンガや絵を描いた記憶はなかった。
「そうだ……中村先生になったときからだ!」
 井上はポツンと言った。
 小学三年生になりクラス編成と担任の先生が中村治男先生に替わってから、井上は楽しく絵を描き、マンガを描くことが習慣になっていく。
 
「井上! この大工さんはなかなかよく描けているぞ!!」
 後から大きな声で井上の描く水彩画をほめた。
 それが小学三年生になったばかりの井上はじめの担任 中村治男だった。
 キョトンとする井上に向かい、
「この絵は井上の家を建てているところか?」
 と、中村が訊いた。
「むがいの家を建てている大工様のことを描いた……」
 か細い声で恐る恐る答える井上だった。
「一生懸命に働き、楽しく仕事をしている様子がよく描けている!!」
 井上が初めてほめられた瞬間だった。
 
 井上は小学校ではほめられたことはなかった。
 図工や音楽の時間に楽しくしていると、
「まじめに描きなさい」
「ふざけて歌うな!」

 と、先生からは注意をうけていた。
「どうしてオレばかり叱られるのかわからんねえ」
 と、井上はだんだん勉強が嫌になっていた。
 そんな井上だから、中村の言葉が理解できず、
「先生、ゴメンなさい」
 と、謝った。
「なんで謝るんだ?
みんな見てみろ……井上がなかなかいい絵を描いている。
働くことは大切だ。
一生懸命に働くこと、そして楽しく働くことが大切だ。
それを井上はきちんと大工さんから学び、それを絵に描いてある」

 クラスの仲間たちが井上の机を囲んできた。
 井上はとても恥ずかしいかった。
そしてうれしかった。

 この絵は校内コンクールで特選になった。
また、米沢新聞社主催の絵画コンクールでも特選になった。
 中村は井上がどんな手法で絵を描こうが批判をしなかった。
それよりも絵に描かれた内容やテーマをズバリ的中させるのだった。
 井上は少しずつ自分に自信を持つようになった。
また、自分の考えを少しずつ絵に表す努力をするようになった。
 そうするうちに、自分の考えをズバリ伝えるにはマンガが早いのではないかと考えるようになっていった。



(2008年 7月26日 土曜 記)




(文中の敬称を略させていただきました)

熱い夏の日・第一部

山形マンガ少年東京騒動記第7回  

回へ 回へ



トップページ

みちのくはじめさんのブログ

懐かし掲示板に感想や懐かしい話題を書き込みをしてください。

漫画同人ホップのコーナーへ戻ります

トップページへ戻ります
inserted by FC2 system