電車は米沢駅を出発した。
青空に田んぼの緑が大きくゆれ動き、爽快な風が井上の顔を襲った。
井上は細い目をさらに細くして、風をよけた。
電車は田んぼの中を走って行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
電車は混んではいなかった。
ガタコト、ガタコト、と、線路のつなぎ目に架かる音が繰り返し、電車の中に響いた。 その音につられるように、井上には眠気が襲ってきた。
井上はじめはいつ頃からマンガを描き始めたのだろうか。
井上自身が覚えているのは、あと三ヶ月で四歳になろうとした昭和三十二年十月二十六日のことだった。
母親が産気づいてきたこの日、母親の井上ケサ子は朝から二階の部屋でひとり布団に横になっていた。
幼いはじめは、急な階段を時間をかけてひとりで上り、母親の元に行った。
「あーちゃん!!」
母親の横になった姿に井上はそう声を掛けた。
「ハジメっ!?……」
びっくりしたケサ子はそう呼んで、起き上がろうとした。
う、う、う、う……とケサ子は唸り、態勢を横にするのが精一杯だった。
はじめは、小さな両手にスケッチブックとクレヨンを持ち、ケサ子の寝ている前に立った。
逆光の影で暗くなっているケサ子の顔に微笑みが浮かんだ。
坊ちゃん刈りのはじめはチョコンとケサ子の傍に脚を伸ばして腰を落とした。
「ハジメ、ひとりで階段を上れるようになったんだね」
ケサ子はそう言って、はじめのからだに触れた。
はじめはスケッチブックを開けた。
「あーちゃんを描く!」
そう言うとクレヨンを出して、画用紙に向かって顔らしきものの輪郭を描き始めた。
「上手だね、パパに似れば絵は上手!あーちゃんに似れば絵は下手なんだよ」
ケサ子は笑いながら言った。
普段は母親としても接することが少ないケサ子だった。
母親役は、はじめの祖母でケサ子の母親のふみが一気に引き受けていた。
はじめが父と母を苦手にしていたからだ。
父と母は仲がよく、はじめはそれが鼻持ちならない思いで見ていた。
また、ケサ子がときどきおさげ髪を結うと、自分の母親ではないような、誰かに奪われてしまうような淋しさが、幼いはじめの小さな気持ちを襲うのだった。
「あらあら、はじめちゃんはここざいだながあ(ここに居たのか)!?」
と、祖母のふみが部屋に入るなり言った。
「よく、階段をひとりで登ったごとなあ。
お兄ちゃんになるんだから、その位はできるようになったのがな」
ふみはそう言って、電灯の紐を引っ張った。
電球がパッと部屋を明るくした。
ふみの目がはじめの追う。
猫背になって画用紙に向かうはじめがいた。
絵は描き続く、髪はパーマをかけているケサ子をクルクルと茶色のクレヨンが舞う。
「アラ〜ッ、これはあーちゃんの顔だね。
はじめちゃん、上手だね!!」
ふみが大声で言った。
シーッ っと、ケサ子が自分の口元に人差し指を立て、ふみの声を制した。
ふみも自分の口を両手で塞いだ。
「このままにしておいても大丈夫だから……」
ケサ子はふみにやさしく言い、ふみは足音を立てないようにして階段を降りていった。
両親になつかないはじめが、母親とふたりっきりになっていること事態が異例だった。
似顔絵がだんだん完成してくる。
似顔絵の母親は髪型はパーマでやさしい目をしていた。
こんなに大人しいはじめは初めてだった。
そしてはじめにとっても、こんなにやさしい目で見つめてくれる母は初めてだった。
それから数時間後に母ケサ子はあの世に旅立つのだった。
しかも、元気な赤ちゃんも一緒に。
(2008年 6月26日 木曜
2008年 6月30日 月曜
2008年 7月 6日 日曜)
- ■
|