- 井上は石井を自宅に案内した。
先ほど、祖父長吉から石井編集長を自宅でもてなしたいから、片付けが終ったら自宅に連れするように指示があった。
そのことを石井に伝えると、
「よろこんで」
と、受けてくれた。
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- 井上の自宅は、純喫茶店「田園」から歩いて10分ほどだった。
夕方になっても暑さは続いていた。
ムンムンする空気中を二人は話しながら歩いていた。
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- 「こんなに靴がアスファルトに粘り付く感覚は初めてだよ」
と、石井は言った。
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- 西東に走る大通りは鉄砲屋町から鍛冶町になりなり、すぐに北に折れる路地があった。
路地は舗装がされていない。
路地の東側には路地と同じくらいの大きく深い川が流れていた。
「土の感触はホットするね」
石井が言った。
確かにアスファルトのような熱を感じさせない。
しかも路地には川の水が打たれてあった。
川の流れる音も涼しさを誘った。
数件の長屋が続いて途切れ掛かった二階建ての家が井上の自宅だった。
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- 「石井さん、ここがオレの家です。
どうぞ!」
そう言って井上が、ただいまと玄関に入った。
その後を石井が、ごめんくださいと言って後に続いた。
「ハ〜イ」
- と、祖母のふみが出迎えた。
「よぐ、きてくだった……
さあ、暑かったば、あがってくだい」
ふみには薄い夏物の着物をがよく似合っていた。
そしてとても涼しげな表情だ。
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- 八畳の茶の間にはすでにもてなしの料理が準備されていた。
「編集長〜よくござった!
はじめのじいさんです」
と、祖父の長吉はいつもよりも愛想よく大きな声で挨拶をした。
そして挨拶をする石井を手招きして、扇風機の前に座らせた。
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- ふみは冷たいお絞りを石井に渡した。
石井は、サングラスをとりながら、
「ほんとうに暑いですね」
とやさしい声で言って、お絞りで顔を拭いた。
そして、正座をしなおして、
「虫プロ商事の石井と言います。
この度は井上くんたちの情熱に誘われてやってきました。
おじいさんもおばあさんもよろしくお願いします」
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- その丁寧な挨拶に長吉とふみは驚いた。
さすがは天下の手塚治虫の編集長だけある。
生意気さ、驕り高ぶりがない。
時代を動かし、時代を創っている人たちだから、もう少しは威張ってもいいはずだ。
それなのにこんなに謙虚で
「孫たちの情熱に誘われてやってきた」
などとはそうそう言えるものではない。
この方は相当な大物だなあ……
と、石井に対して長吉は感心した。
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- 「さあ、冷えたビールを一杯どうぞ」
と、ふみはビンのキリンビールを両手で差し出した。
「先ずは、編集長。
今日は遠路はるばるありがとうございました」
と、長吉がコップをあげて礼を言った。
井上も続いて
「ありがとうございました」
と言った。
それを合図に四人がコップを合わせて乾杯をした。
井上のコップにはキリンレモンが入っていた。
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- 長吉とふみは、孫のはじめの生い立ちと家庭環境の話をした。
父親の影響かマンガが好きなこと、はじめは手塚治虫先生に二回もハガキをもらったことなどを短時間に話をした。
石井はそれをフンフンと言って聞き、わからないことは遠慮なく質問をした。
石井は郷土料理に関心があるようで、鯉のあらい(刺身)、鯉の甘煮(うまに=甘露煮)を美味しそうに頬張るのだった。
「石井さんの出身はどこでやった?」
と、ふみが訊いた。
石井は、
「岡山です」
と、答えた。
するとふみは、
「岡山だったら海の魚が楽しめるべした。
沼の鯉をこんなに美味そうに食べるとは意外だべしたね」
が、言った。
「ぼくは好き嫌いはないですから。
この丸い茄子も珍しいですね」
そう言っておいしそうにほおばる石井に、ふみは親しみを感じた。
- (2006年 8月16日 水曜)
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