まだ薄暗い夜明けの道を、井上はじめは手提げ袋を大事に抱きかかえて歩いていた。
米沢駅から西に向かい、駅前大通りから北側の路地を歩いていくと松川橋がある。
最上川の上流にあたるこの松川を渡り、割出町を越えると鍛冶町になり、その町の隣から中央三丁目になっていた。
井上の自宅はこの辺りであった。

駅から約二十分歩いてこの自宅に着いた。
自宅の木の門は開いていた。玄関も開いており、家からは煌煌と灯かりが漏れていた。

「ただいま〜」
小さい声で井上が挨拶して玄関に入って行くと、祖母のふみが台所から早足で茶の間に向かってきた。
「疲れたべ、さあ、一服しな」
そう言ってふみは茶の間で井上を迎えて、すぐにお茶を注いだ。
「ばあちゃん、起きてたのか?」
「今、起きたばっかりだ。
 いつもこの時間には起きてっから。
 年寄りは朝が早いからしょうがねえさなぁ」
そう言ってふみが笑った。
井上は出されたお茶をふうふうと吹きながら飲んだ。
美味かった。
「ばあちゃん、お茶がこんなに美味いとは思わなかった」

わずかの二日間だけ酒田と東京に居ただけなのに、外で飲んだ水のまずいこと、特に東京の水はまずかった。
「水が合わない」とはこのことをいうのだろうと井上は思った。
「んだべえ!?、
 東京は水道水だからカルク臭がったべ。
 人が大勢住むってことはたいへんなんださなぁ」
ふみは井上が無事帰ってきた喜びを隠しながら、目を細めて言った。

(2006年3月23日 木曜 記)


「今日は学校に行くから、少し眠るよ。
 ばあちゃん、七時になったら起してくれっかい」
「はじめ、あと二時間半しかないよ。
 無理しながったらいいべ」
「いや、先生たちに報告しないといけないから……。
 今回だって電車代が学割だったのも、先生たちのお陰だし、これからまんが展の準備をするにも学校の協力がないと進められないから、今日は行かないといけないよ。
 そのかわり今晩は早く寝るようにするから」
ふみははじめの健康を心配していただけに、今日ははじめにはこのまま眠ってもらいたかった。
それに手塚治虫先生のことの話も訊きたかった。
まあ、それは追々に訊けばいいかとふみは自問自答した。

「ばあちゃん、二階のおれの部屋では熟睡して起きられないと困るから、この茶の間に寝るよ」
はじめは座布団をふたつに折り、それを枕にした。
タオルケットを掛けてすぐにいびきをかいて眠ってしまった。
手提げ袋に入った大事なマンガの原画は、枕の前に置いた。
ふみはそっと歩いて台所に消えた。

井上は朝ごはんを祖父の長吉を交えてふみと三人で食べた。
そしていつものように学校に行った。
井上が通っていた学校は椎野学園米沢中央高等学校だった。
井上の自宅から学校までは歩いて二十分ぐらいで着く距離だった。

井上はすぐに職員室に顔を出した。

「先生、ほんとうにありがとうございました。
 お陰で手塚先生とも直接お会いすることができました」
先ずは担任の進藤先生に挨拶をした。
担任は学割を発行するように手配をしてくれた「共犯者」だった。
「はじめくん、それはよかった。
 手塚先生は権威あるお方だし、売れっ子なのによく会えたねえ。
 それでおじさんの容態はどうでしたか?
 だいぶ悪いの?」
と、通常に酒田と東京へ行くために学割を発行するために、進藤先生はいろいろ考えた上で、井上の叔父が病気になって幾ばくかの命のために学校を休んで上京しなければならないというストーリーをあみ出したのだった。
「手塚治虫先生はいつの間にか「医師・手塚先生」になっていた。
「はい」
井上は余計なことを言わないで返事した。
「そうですか、たいへんですね。
 かん、肝臓癌ですか。
 でも手塚先生に掛かっては不可能はありませんから、大丈夫でしょう。
 でもよかった、手塚先生に会えて本当によかった」
この進藤先生には小円遊とアダ名だった。
 顔が人気落語家の三遊亭小円遊に似ていることもあったが、教師には珍しい漫談のようなトンチの効いた話で授業をすすめることが、そのようなアダ名になっていたようだ。
 このときも進藤先生は整然として井上に対応し、手塚治虫先生に会えたことを喜んでくれたのだった。 

井上は次に、向かい席の土肥先生のところに行った。
土肥先生は井上たちの米沢漫画研究会の会長だった。
そのお陰もあり、土肥先生は学校内での機材などを利用できるように便宜を図ってくれた。土肥先生は角ばった顔にメガネを掛け、二十代後半にしては若わかしかった。
「おお、はずめ(はじめ)!行ってきたか。
 原画は借りられだかぁ?」
と土肥先生は開けっぴろげに訊いてきた。
井上からは一瞬、冷汗が飛び出してきそうだった。
進藤先生も机の書類越しに顔を伸ばしてまずい顔をした。
「はずめ(はじめ)、どうした?ん?」
周囲や井上の顔色などお構いなしに訊いてきた。
井上は小さい声で経過を説明した。
「大したもんだ!!偉いなあ、お前でないぞ。
 手塚治虫先生は流石に大物だ」
腕を組んでしみじみとそう言った。

「おお、井上!手塚治虫に会ってきたか?」
職員室に響きわたる大きな声がした。
あわただしい職員室が瞬間に静かになった。
声の持ち主は髪をモジャモジャに伸ばし、無精ひげ面の長南先生だった。
長南先生も井上たちの米沢漫画研究会の会員っだった。

「チョウナンのばかやろうが……」
と声を潰して進藤先生が言った。
学校には授業開始のチューブラベールチャイムの音が響いた。

(2006年3月26日 日曜 記)


(文中の敬称を略させていただきました)
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第3回にご期待下さい。

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