1970年、昭和45年7月7日火曜日、午前3時47分、急行「津軽」は米沢駅に到着した。
まだ暗い朝だった。

高校二年の井上はじめは手提げ袋を抱きかかえながら、フラフラと電車を降りた。
「じゃ、井上くん。
 まんが展の準備を頼んだよ」
電車の窓を開けて背広姿の村上彰司が言った。


「井上センセ、大丈夫ガッス?
 足元がフラフラしてるッス」

たかはしよしひでも窓から身を乗り出して井上に声を掛けた。
たかはしは毛髪が太く、色白に眉がしっかりしていて、夜汽車を一晩起きていたとは思えないほど元気だった。

「大丈夫です。
 お世話になりました。
 準備はみんなに手伝ってもらいながら進めて行きます」

寝不足でまぶたを腫らした井上はそう応えるのが精一杯だった。
正直、井上の心は不安と自信が行ったり来たりしていた。
まだまだ暗い夜明け前の駅のホームにたたずむ今の自分の姿が、まるでそれを象徴しているようだった。


「第1回 山形まんが展」



今年(1970年)の4月に酒田市のデパートで村上たち「山形漫画予備軍」が中心となって開催した。
手塚治虫、石森章太郎、藤子らのそうそうたるマンガ家たちの原画と、山形県でマンガを描いている青年たちの原画を展示したこのマンガ展は、東北でも初めての試みとなり話題を呼んだ。
今度はそれを米沢漫画研究会が中心に米沢市で行なうというのである。
この米沢漫画研究会は昨年の九月に誕生したばかりであり、メンバーのほとんどが高校生であった。
無謀としかいいようのないこの企画は、村上彰司が仕掛けたのである。
村上彰司は酒田市に住むサラリーマンであった。
酒田で漫画研究会「ビッキ」を作り、さらには山形県庄内地方の数ある漫画研究会の連合組織「山形漫画予備軍」を設立し、初代会長を務めていた。

村上には夢があった。
その夢は、山形に虫プロ商事が発行しているマンガ専門誌「COM」(以下コムと称す)が組織するマンガ同人会の全国組織「ぐらこん」(正確にはグランドコンパニオン)の山形支部の認可を受け、山形各地にある漫画研究会や同人会からプロのマンガ家を発掘したいのであった。
村上は何回か上京して、虫プロ商事を訪問していた。
コム編集部の秋山や石井編集長へは村上はその夢を伝えていた。
しかし、村上の言葉による熱心さだけではなかなか編集部から「ぐらこん支部」結成の認可は下りなかった。
当時は北海道、東北、関東、関西、九州というブロック毎の支部はあっても「県単位」の支部は異例であったからだ。
それだけ村上の提案は奇抜であった。

もうひとつは同人会の少ないことであり、めぼしい同人誌やマンガ家になれるような描き手もが見当たらないことであった。

村上はそれらの条件はいずれ可能になると考えていた。
いや、計画していた。
その計画のスタートが「ぐらこん山形支部」の結成だった。
支部を結成すれば、ますます同人誌での作品の競い合いが描き手に起こるだろう。
また、
「埋もれた若者や描き手はきっとこの山形にいるはずである」
と。
その受け皿として、身近に「ぐらこん山形支部」が必要であるとを、村上はコム編集部の秋山満には話していた。

村上は時間を作っては長距離電話でコム編集部に同じことを訴えていた。
対応はいつも秋山だった。
秋山はしだいに村上の熱心さに心打たれて、彼なら夢を現実にしていくだろうと思うようになっていた。

そんなある日、村上はプロとアマチュアによるまんが展の企画を思いついた。
ぼくたちの実力を世間にみせたい、そしてプロのマンガ家への距離感を縮めて行きたいと願ったのであった。

その第一弾がこの4月に酒田の清水屋デパートで開いた「第一回山形まんが展」であった。
まんが展などまだまだ馴染みのない時代であったが、手塚治虫や石森章太郎、藤子不二雄の名前だけは有名であった。
そのマンガ家たちの原画をひと目見ようと子どもから大人まで会場は人でごった返した。


村上は自信を持った。
そしてその会場に現れた山形のたかはしよしひでと米沢の井上はじめに目を付けた。
「県都山形市に県南米沢市とは都合がいいぞ」
村上のメガネの奥の目が瞬間だけ光った。

(2006年3月22日 水曜 記)


(文中の敬称を略させていただきました)
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