68回 祖父母の不安



「やまがた〜…やまがた〜…」
 減速したつばさが山形駅に到着するとぞろぞろと乗客が降りてきた。
 構内には駅の独特な臭いが立ち込めていた。
その臭いは煙分のような感じで、ムーッとした暑さのせいか空気の中で一層充満しているようだった。
「山形も結構暑いなあ。
さあて、旅館に行ってお風呂を浴びよう。
そして大村ちゃんから原稿をもらって明日帰ろう」

 すでに汚れたハンカチで首筋や顔の汗を拭いながら、虫プロ商亊の野口勲は改札口を抜けてタクシー乗場に向かった。
「いやあ〜、甘い甘い、天下の手塚治虫先生だから、いまだに原稿が描きあがっていないことを想定しなければ……。
でも、ボクは他の編集者と違って、手塚ファンだから同じ部屋に一緒にいられるだけで幸せだ。
絶好のチャンスだ!!」

 野口はそう言って、タクシーに乗った。

「ジョン!
そんなに走るな!!
歩け、歩くんだ!!!」

 井上はじめの祖父長吉は愛犬と散歩をしていた。
 愛犬といっても大型犬だから、体格のいい長吉でも犬に引きずられるようにして歩いていた。
 街の中にある空き地にくると、長吉は犬の首輪から鎖を外して、犬が自由に遊べるようにする。
その間、長吉は無造作に置いてある長方形の石に腰を下ろして、休憩をして考え事をするのが日課だった。

 いまごろはじめは手塚治虫と会ってなにを話しているんだろうか。
たかはしよしひでサンや鈴木和博クンと、マンガ家になるように口説かれてはいまいか。
 あのコムの石井編集長はなかなか立派な方だから、ヤクザな商売ではないのはわかったが、マンガ家の仕事は画家と同じで売れなければ価値はない。
大事な孫をそんな仕事に就けていいのだろうか。
 長吉の心の中はけっして穏やかではなかった。

 祖母のふみは台所で夕飯の支度をしていた。
 ふみの心中も穏やかではなかった。
 今夜はじさま(爺様)と二人だけの食事だから、おかずもたいしたものはいらない。
だけども孫のはじめのことが心配だ。
 はじめはマンガ家になりたいなんて言ったこともないから、手塚先生に付いて行くなどというバカなことはないだろう。
だけど、マンガ界の仕事はマンガを描くばかりではない。

 ふみはコムの編集長石井文男が訪ねてきた時のことを思い出していた。
あの時の石井編集長ははじめの将来のことを訊いてきた。

「井上くんは将来何になるつもりでしょうね」
「何したいなだがなあ・・・。
 そろそろ考えなんねげんどね」

そしてふみは石井に訊いた。
「石井さん、はじめを手塚先生の所さ、連れて行こうと考えてるんだか?
 はじめが(家出したりして)居なぐなったら、石井さんさ一番最初に訊けばわかるようにしてくだいなあ」
「おばあちゃん、何を言っているんですか。
 井上くんが来たいのなら別ですけどね」

ふみの気持ちはうれしくもあり、淋しくもあり、複雑だった。
「うちのばさま(婆様)は、バカなごどばっかり言うがら気にしねでくだいな」
と、長吉が言った。

 あれ以来、ふみは石井編集長がはじめを自分と一緒に働く編集員として考えているのではないかと思えてならなかった。

 はじめにいろいろ訊いてると、手塚治虫はマンガ制作、アニメーション、出版の、三つの会社の社長だという。
そこでは何百人の社員が働いている。
 マンガ界は奥深い産業だということがわかってきた。
だったら今日の手塚治虫とはじめたちの会合は、将来のマンガ界へのチャレンジの一歩かもしれない。
いいや、それはもう始まっている。
だって、高校生が主催する田舎のまんが展に、売れっ子マンガ家の原画を何百枚も無償で貸すなんて考えられないことだ。
 これにはきっと裏がある。
 手塚治虫先生、石井編集長、酒田の村上サンと山形のたかはしセンセイとの間で進んでいる将来のビジョンが潜んでいるのに違いない。
つまり、いずれ村上サンもたかはしサンもはじめも手塚先生の下で働くということが決まっているのかもしれない。
 それをはじめだけが知らないで、どんどんその中に引きずり込まれていっているのではないかと。

 長吉とふみの不安は一層濃くなっていくのだった。



(2008年 4月 5日 土曜 記)



事実経過に基づいて描いておりますが、ご本人や関係者の名誉のためにも、登場人物のの心理や考えは作者の想像の範囲であることをお断りしておきます。

写真:
祖父長吉は愛犬ジョンと散歩するのが日課だった 
(昭和40年代初期に撮影・川島印刷初代社長)


(文中の敬称を略させていただきました)
熱い夏の日第68回

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