60回 戸惑い



 東洋曹達酒田工場の工場長と村上彰司はソファに向き合い、無言の時間を過ごしていた。
 
 外からは忘れたころに熱風が窓を通して部屋に入ってくる。
 村上はいまもらったばかりの四日市工場への辞令書を右手に握り締めながら、頭から流れる汗を拭おうともせずに頭を下にうなだれていた。
 
「もうそろそろ夕暮れだね。
村上くん、なんか深い事情がありそうだね?
よかったら今晩一杯やりながら話を訊いてもいいんだがね」

 工場長は手ぬぐいで頭から顔にかけて汗を拭いながら言った。
 村上は迷っていたが、ここではっきりと事情を話すことは自分がこの仕事を継続する意志表示になると思った。
「工場長!
実は手塚治虫先生が社長をしている出版社に編集者として誘われているんです!!」

 村上は工場長に向かって大きな声で言った。
「それはたいしたもんだ。
村上くん、流石だね」

 工場長の意外な言葉に村上はビックリした。
「村上くん。これはチャンスじゃないかあ?
いまや時の人というより、マンガを日本の文化に発展させた手塚治虫先生に誘われるとは名誉なことだ。
いやあ〜おめでとう!わが社としても名誉なことだ〜。
よくやったね〜」
「いや、工場長、違うんです」
「なにが違うんだね?」
「手塚先生に誘われたんじゃなく、編集長の石井文男さんに誘われたんです」

 村上は工場長の言葉を訂正するように言った。
「なにを言うんだね、村上くん。
編集長さんに言われたということは社長の手塚先生に言われたのと同じなんだよ!?
会社とか組織っていうのはそういうものなんだ」
「………」

 村上は工場長の言葉に呆然とした。
「村上くん。
遠慮はいらないよ。
人生は二度ない。
もって生まれた才能や運命も誰もまねできないものなんだからね。
こんなチャンスは二度とないかもしれないんだから……」



 米沢の井上の自宅では祖父の長吉と祖母のふみが茶の間で机をはさんで向き合っていた。
 大きく開いた茶の間の窓からはせみの鳴き声が入ってくる。
 
「今日のミンミンせみがうるさいなあ!
はじめクンはいまごろどうしているんだろうなあ?
ばさま(婆様)心配でないながあ?」

 長吉はあぐらをかいで貧乏ゆすりをしながら落ち着きなく怒鳴るように言った。
「もう少し静かな話し方をしたら。
まったく今日は落ち着きがないんだから?」

 ふみは半分あきれ顔で言った。
「はじめクンが連れて行かれたらどうすんなだあ?
オレはお前とふたり暮らしはやんだ(嫌だ)がらな!!」
「なにを子どもみたいに言ってんなや。
はじめはどこにも行く気はないから……バカだねえ」
「そんなのわかんねべ〜っ。
いまごろ手塚治虫先生に口説かれて、東京さ行きます!って答えているかもしんにしなあ。
今日連れて行がれっがもしんにしなあ」
「じさま(爺様)の話は大げさだ。
はじめはマンガ家なんかになるなんて一回だって言ったことないんだがら心配ないって」

 話にならないと思ったふみは台所に立って行き、冷蔵庫からキリンビールを一本出してきた。
「ビールでも飲んで頭を冷やしたらどうだい?」
 ふみはそう言って栓を抜いた。
「ビールなんか飲んでいられるかあ!」
 長吉はそう言って立ち上がり、外に出て行った。
「なんて気持ちが小さい人なんだろう。
もっとはじめを信じてやればいいのに」

 ふみはポツンとそう言いコップのビールを一気に飲み干した。



(2008年 1月27日 日曜 記)



この回の内容のうち、東洋曹達の部分は作者によるフィクションです。

(文中の敬称を略させていただきました)
熱い夏の日第60回

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