「マンガ雑誌が昭和三十五年頃から週刊誌時代に入り、平均十六ページをこなすとなると制作に相当なスピードが要求されます。
だからみんなアシスタントを使うようになったんです」
手塚治虫は小学生の二人にもわかるように丁寧な説明を心掛けた。
「でも、手塚先生は月刊誌のときからアシスタントを採用していたんですよね」
たかはしがそう言うと、
「そうなんです。
当時の月刊誌は八ページが多く、後に別冊付録として小さい版にも続きを描くことになるんですね。
ボクなんか連載がいつも四、五本あるので、とてもひとりでは追いつかないので、最初は雑誌編集者にベタを手伝ってもらったり、烏口で枠線を引いてもらったりしたんです。
中にはボクより上手な編集者が居たりするんですがね(笑い)。
それでも間に合わなくなると、当時の『漫画少年』っていう……、たかはしクンや井上クンはご存知ですよね?いまのコムみたいなマンガ家志望の少年たちが投稿していた専門誌なんですが……。
そこに投稿している少年たちに手伝ってもらうんですよ。
そうそう藤子不二雄氏や石森章太郎氏なんて、そのハシリですよ」
鈴木和博も宮崎賢治も、そして後藤和子や伊原秀明も楽しそうに聞いている。
あの多田ヒロシ少年と名も知らない少女も熱心に聞いている。
鈴木が手塚に質問をしようと右手を軽く挙げた。
手塚はどうぞと鈴木に促した。
「そのころは『弟子』ではなかったのですか?」
鈴木が訊いた。
「そうですね。いろいろなタイプがありましたよ。
例えば石森氏のようにそのときに合わせてお助けマンだった場合と、いずれはマンガ家になるんだという弟子制度、それにまるっきりのアシスタント業に割り切っている人もいます」
「ソランの宮腰先生や小室先生が弟子タイプですね」
と、鈴木が言った。
「鈴木クン。逆の場合もあるんですよ」
鈴木は一瞬心臓が止まりそうになった。
自分のことを「鈴木クン」と手塚治虫が呼んだからだ。
マンガの神様がボクの名前を呼んでくれた……夢のようなことだったからだ。
「マンガ家だった人がアシスタント業になることだってあるんですよ」
手塚が言うと、一同へ〜ッと驚きの声を上げた。
「マンガ家として活躍する限界を感じた人や人気がなくなり仕事がこなくなる人。
絵や技量は優れているがアイデアや物語が苦手な人もいて、いまはアニメーターに転向するマンガ家やアシスタントとして割り切ってマンガ界に残っている人もたくさんいますよ」
手塚は静かにマンガ界の生き残りのむずかしさを話した。
「手塚先生!お話中すいませんが……」
と、脇にいつの間にか来ていたのが手塚プロの佐藤だった。
手塚は話をやめて、見上げるようにして佐藤を見た。
「手塚先生、もう秋田に向かう時間ですが」
自分の腕時計を右のひとさし指で指しながら佐藤が言った。
「エッ、もうそんな時間なんですか?
困りましたねえ、ボクはまだ肝心の話をしていないんです!」
手塚が言うと、佐藤は困った表情をした。
「なんとかなりませんかねえ」
手塚は言うと、
「なりません!!」
と、佐藤が強く言った。
しばらく二人に無言が続く。
「こうしましょう!あなただけ先に秋田に行ってください。
指定券はキャンセルしてください。
ボクはここで話を続けますから。
いいですネ?
大村氏はボクと残り、『トキワ荘物語』を描き上げたらそれを送ってもらい、ボクより先に秋田に向かってもらいます。
書店との準備もあるでしょうからね」
手塚は一気に話をした。
「わかりました」
佐藤はそう言って手塚に頭を下げ、大村を喫茶室の外に誘い出て行った。
どこまで話をしましたか、と手塚はたかはしに訊き、続きを話した。
(2008年 1月13日 日曜 記)
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