お昼どきの強い日差しの中を、井上はじめの祖父・長吉は、炎天下の中を自転車でゆっくり走っていた。
ハンチング帽子からは汗が流れていた。
顔は真っ赤になっていた。
自宅に着くと急いで自転車を降りて玄関に入った。
「ばさま(婆様)は居るかあ〜?」
怒鳴るような声で長吉はふみを呼んだ。
太陽の日差しのせいで家の中に入ると、茶の間の中が暗く見えた。
ガタ〜ン!!
大きな音がなった。
座敷の夏座布団につまずいて長吉が転んだ。
「ああ、こんなところに座布団を置く奴があっかあ」
と、長吉はひとりで声を荒げた。
ジーン、ジーンと黒電話が鳴った。
長吉が立ったまま受話器を取った。
「ハイ!井上だあ!!
なに〜い、そんなの知らん!
うるさい、いまはそれどころではない」
そう言うと、投げつけるように受話器を置いた。
「クソ婆め、このたいへんなときにどさいった?
オレは居ても立ってもいられねえ。
仕事になんねズ〜」
と、長吉はひとりで茶の間をウロチョロウロチョロした。
扇子を出してせっかちに仰ぎだす。
「婆いだがあ(いるか)?」
と、声を一緒に玄関から茶の間にヌ〜ッと四十代後半の後藤しずえが現れた。
「爺ひとりがあ?」
後藤が訊いた。
「ああ!」
長吉が無愛想に答えた。
後藤しずえは井上家の大家の嫁で、毎日、お互いの家を行ったり来たりしている間柄だった。
「しずえさ(さん)、困ったもんだ」
長吉は急に肩を落として、甘えるようにしずえに言った。
「なにしたなや、爺?」
しずえがやさしく訊いた。
「はじめをとられっかもしんに?(とられるかもしれない)」
「誰に?」
「手塚治虫センセイにだごでえ」
長吉がしんみりと言った。
「マンガ家のかあ?」
「ウン、いま会っているんだ」
「なに?はじめちゃんが手塚治虫と会っているのがあ?」
「……しずえさ!どうしたらいいべえ?」
「手塚治虫の弟子になるのがあ」
「困ったなあ。オラだぢはどうしたらいいんだべえ」
長吉は孫の井上はじめが手塚から口説かれて東京に行ってしまうのではないかと心配でしょうがなかった。
祖父母で育てたひとりの孫だけに、自分たちの今後のこともある。
心配しても当然な環境だった。
「爺、大丈夫だから心配すんなあ。
誘われてもはじめちゃんは断るに決まっている。
爺や婆をおいていくようなことはない。
そんな躾をしていなかったべえ」
しずえは長吉を励ました。
「いやあ、わがんねぞ(わからない)
はじめは小学学校から自分で手塚センセイや雑誌社に手紙を書いたり、マンガを送ったりしていた。
中学生になったら学校新聞にマンガを描き、高校生になると同人会を組織するし、先だってもまんが展をした。
オレだちから見てもやっていることが尋常じゃない」
気の強い背を丸めて弱々しく語るのだった。
長年付き合っているしずえでも、こんな長吉を見るは初めてだった。
外ではミンミンぜみが鳴いていた。
(2007年12月28日 金曜 記
2007年12月30日 日曜 記)
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