井上らが山形市の八文字屋で手塚治虫と会っているころ、村上彰司は酒田市で勤務会社の東洋曹達酒田工場にいた。
「村上くん。正式な辞令だ。
きみは優秀な人材だけにこの酒田工場から四日市工場に転勤することは誠に残念なことだ。
しかし、東洋曹達全体ときみの将来を考えた場合は、よいチャンスに恵まれたなあと、心から喜んでいる。
どうか、このチャンスを生かしてさらなる研鑽に励んでもらいたい」
酒田工場長はそう言って村上に辞令書を渡した。
村上は背筋を伸ばして辞令書を受け取った。
「まあ、掛け給え」
工場長は右手を下に伸ばして、村上を椅子に誘った。
工場長はタバコに火を点けた。
村上はやや緊張し、額の汗をハンカチで拭った。
「村上くんはマンガを描いているんだって?」
「ハイ、マンガ同人会を作って、そこに作品を発表しています」
「ほほお……」
「マンガ界にも同人会っていうのがあるのか?」
「手塚治虫先生が中心になって『ぐらこん』という同人会の全国組織があるんです。
その会の山形支部を先日作りました」
村上は胸を張って誇らしげに言った。
「手塚治虫先生の弟子というわけか?
これはたいへんなことだ」
工場長が驚いた表情で言った。
村上は、手塚先生のことやCOMのことを説明してもマニアではないからわかりにくいだろうと思って簡単に説明したつもりだったが、工場長の話が飛躍すぎるとは考えてもみなかった。
それでもまあいいか、と、割り切って説明を続けた。
「実は、今日も山形市に手塚先生がいらしています。
ボクもこの辞令式がなければ、年休を取っていくつもりでした」
そう言って、村上は頭をガクッと下げた。
「オイオイ、そんなにガッカリするもんじゃない。
困ったなあ。
当社の優秀な幹部候補生がマンガの神様から会いにこいと言われているなんて、当社の誇りだ。
事情を言ってくれれば、辞令式は昨日でも明日でもよかったんだがね」
困惑の表情で工場長は話した。
「工場長!ボクは行かないことにしたんです!」
村上は頭をもたげたまま言った。
「村上くん、どうしてだい?」
「実は今日、手塚先生に会ったなら、この工場には戻ってこれなくなるからです」
しんみりとした語り口で村上が言った。
「どうも意味ありのようだね。
構わないなら事情を話してみてくれ」
工場長は村上の顔を覗くようにして訊いた。
村上は両手を握りこぶしにして両膝に置き、無言で答えなかった。
気を使ってやさしい声を掛ける工場長だった。
工場長のしつこさに負けた村上は、
「工場長、実は誘われているんです」
と、低い声で言った。
「誘われているって、どこにだい?」
工場長がやさしい声を変えないで訊いてきた。
(2007年12月26日 水曜 記)
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この回の内容は作者によるフィクションです。
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