30回 就職



イラスト:たかはしよしひで

「モシモシ!イ・ノ・ウ・エ・クン!聞いている?」
 受話器のむこうで石井の呼び声が流れている。
「どうしたの?井上クン!?」

 井上は、手塚治虫先生との初めての出会いを思い出して、その世界に入っていた。
「ハジメ!……はじめ!!
ほらなにしてんなや!!石井さんが呼んでいるのにボーッとしてえ……」

 と、見かねた祖母のふみが井上に大声で話しかけた。
 我に返った井上は、
「ごめんなさい……びっくりしました。
夢のような話なので。だってわずかの間に二回も会えるなんて。しかも、山形でとはびっくりです」

 井上は興奮しながら応えた。
「ハッハッハッハッ……そうかそうか。でも、手塚先生はキミたちに会ったときに、山形での再会を約束したと言ってたよ」
 石井はそう言ってから、実は手塚先生がね、と慎重な語り口で言い始めた。
「できるだけ人数は絞ってもらいたいと言っているんだ。キミたちにいろいろ訊きたいことがあるようなんだ」
「……はあ……」

 井上は気の抜けた返事をした。
「それでね。あのまんが展で中心になっていた、村上クン、たかはしクン、鈴木クン、宮崎クン、それとキミがこれぞと思っている人にしてちょうだい。いいね?」
 念を押すように石井が言った。
「石井さん。手塚先生の訊きたいことってなんでしょうか?」
 井上は気になった。マンガ界の大御所がボクらにどんな話があろうというのだろうか。

 あんなに忙しい手塚先生がボクたちと会いたがっていることには、なにか理由があるんだろう。

「はじめ。石井編集長の用事はなんだったなや?」
 と、訊いた。
「手塚先生が山形に来るから、その時に会おうって。オレたちさ話があるらしい」
「話ってなにや?」
「よっくわかんねげんど、大事な話らしい」

 ふみは心配になってきた。
「はじめ。就職のごどがあ?」
 ふみは、はじめの顔色を見て、そっと訊いた。
「ばあちゃん。なにや、就職のことって?誰のや?」
 はじめはふみの質問が意味不明で訊きなおした。
「…………」
 ふみはそれ以上答えなかった。
 しばらく沈黙が続いた。
「変なばあちゃんだなあ」
 はじめはそう言って二階の自分の部屋に戻ろうとした。

 ふみの前を通るはじめにふみは、
「はじめ。先輩の近藤くんや絹代さんの進路はどうするって?」
 と、訊いた。
「近藤重雄さんは大学に進学希望で、絹代さんはたぶん交通公社を希望しているみたいだ」
 と、井上が答えた。
「はじめはどうするつもりだ?」
 と、ふみが訊いた。
「オレは公務員かな。市役所だ」
 と、答えた。
「そうがあ!!んじゃいいな(だいじょうぶだね)」
「ばあちゃん。だげどオレはまだ高二だよ。時間はまだあるがらなあ。どうなっかなあ?」
「そんなごど言わねで、市役所にしろ!なあ!?」

 ふみは念を押すように井上に呼びかける。
「ばあちゃん。変だ!!」
 そう言って、はじめは階段を昇って行った。

「ホントに、だいじょうぶかな?」
 ふみは心配そうにポツンと言った。



(2007年 3月 6日 火曜 記
 2007年 3月11日 日曜 記)




(文中の敬称を略させていただきました)
暑い夏の日第30回

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