25回 峠あかねと真崎守



イラスト:たかはしよしひで

 翌八月一日の夜、村上は井上に電話を入れた。
「もしもし、井上くん?村上です。そう昨日上京して今日酒田に帰って来た。」
 村上の声がやけに弾んでいた。
「村上さん、どうしたんですか?とてもうれしそうじゃないですか?」
 と、井上が言った。
「そうか?わかるか?あのな、ぐらこん山形支部の顧問にな、真崎守(まさき・もり)先生がなって(就任)くれるって!!」
「ホ・ン・トですか?」

 井上は朗報に驚き、そして自分の耳を疑った。
 
 真崎守といえば六十年代後半に、コムや青年劇画誌に突然現れた青年マンガの売れっ子マンガ家だった。
 学生運動や七十年前後のベトナム戦争を背景に、政治的闘争が脈々と若者たちの身体に血となって流れているような物語を描いていた。
 ヨコハマやヨコスカを舞台にして日米の騒音がロックとなって響いてくるような絵と擬音だった。
 鋭角的なコマ周りと動きのある人物、そしてペン画タッチの背景はとても新人とは思えなかった。
 
 たかはしよしひではこの真崎守の絵を見てすぐにこう言うのだった。
「虫プロのわんぱく少年探偵団や佐武と市捕物控の絵に似てないか?」
 たかはしの言うとおりだった。
 真崎守とは虫プロダクションでアニメの動画を描き、後に演出家として活躍をする「森柾(もりまさき)」と同一人物だった。
 
 真崎守がコムに連載を始めると、たかはしのマンガの背景の描き方に真崎の影響が次第に出てくるのがわかった。
 また、別冊少年マガジンには、多感な少年少女の思春期を描いた「ジロがゆく」が連作されると、真崎の影響は井上にもあたえるようになっていた。
 それだけに真崎守はたかはしや井上にとっても「時の人」だった。

「石井編集長がわざわざボクを真崎先生宅に連れて行ってくれたんだよ。
あの売れっ子で忙しい真崎先生が時間を割いて、同人会のあり方やぐらこんの今後の展望のある話を聞かせてくれたんだ」

 村上は物静かに言葉を選ぶように慎重に話をした。
「へーっ、それじゃ峠あかねさんになって話をしてくれたんですね!?」
 と、井上が言った。
「そうそう……マンガ家真崎守というより、ぐらこん企画者の峠あかねそのものだったノ」
 と、村上が答えた。
 
 コムには「ぐら・こん」というマンガ投稿と同人誌の専門ページがあり、その担当が「峠あかね」だった。
 峠あかねとはマンガ批評や、コムの読者が応募してきたマンガや同人誌を辛口で批評していた、コム専属のマンガ評論家であった。
 その峠あかねが後にコム誌上でマンガ家真崎守として登場した。
 つまり真崎守のもう一つの顔が「峠あかね」であった。
 その真崎守がぐらこん山形支部の顧問に就任するということは、当時としては画期的な出来事だった。
 
「オレの周囲ではなにかが起こっている……これが一九七〇年ってことかな!?」
 高校二年生の井上には驚きとしかいいようのない心境だった。



(2006年11月18日 土曜 記
 2006年11月19日 日曜 記
 2006年11月24日 金曜 記
 2006年12月 6日 水曜 記)

 真崎守(まさき・もり)
 本名 森柾(もりまさき)1941年横浜生まれ。
 マンガ家・アニメ演出家・マンガ評論家の顔を持つ。
 貸本屋向け「街」でデビュー。
 その後、63年に虫プロダクションに入社し、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」などに関わる。虫プロで演出を行う。代表作「わんぱく探偵団」、「佐武と市捕物控」など。
 峠あかねのペンネームでCOMで「マンガ評論家」、「ぐらこん」担当者として活躍する。
 1960年後半からマンガを発表する。代表作「ジロがゆく」で第二回講談社漫画賞受賞。「はみだし野郎の伝説」、「共犯幻想」、「キバの紋章」など他多数。
 1980年代はアニメ映画の演出家として活躍。代表作に「浮浪雲」、「はだしのゲン」、「時空の旅人」の監督など。




(文中の敬称を略させていただきました)
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