- イラスト:たかはしよしひで
「石井ちゃん、ところでお願いがあるんです」
手塚治虫はやさしい微笑みを浮かべて石井文男に向かって言うのであった。
こういうときの手塚先生は危ないから気をつけようと石井は覚悟した。
「手塚先生。クレオパトラのマンガ版は坂口(尚)ちゃんに依頼することにしたんですから、手塚先生が描くことはあきらめてくださいね!?やっぱり先生が描きたいのですか?」
石井は構えて質問をした。
「う、うん。それは追々に……実は『火の鳥』のことなんだけど……」
「火の鳥ですか?いよいよ最終回ですから、もう、落せませんよ(締め切りに遅れて連載を中断すること)」
「そうじゃないんです。石井ちゃん、この鳳凰編は今までの火の鳥の中で、ボクは一番力を入れて描いているんです」
手塚は、おでこが見えるようにベレー帽をあげて、両手を大きく広げながら話を続けた。
「それだけに十月号からの火の鳥は『復活編』で西暦二四八二年を舞台にします。でもストーリーが浮ばないのです」
「奈良時代の『鳳凰編』から西暦二四八二年の『復活編』ですか……
でも、先生、先ずは鳳凰編を完成させ、トキワ荘を描いてください。それが先決です」
「ボクはこの鳳凰編に賭けています。手塚マンガと劇画や性を扱ったマンガと、どちらが価値があるかを読者に問いたいのでした。それだけに疲れました。
それからアニメラマ『クレオパトラ』の追い込みで、ヘラルド社からは絶対遅れないようにと釘を刺されています」
手塚の熱心さと社長として世間に笑われるようなことはさせてはならない。編集長としては社長の希望に応えなければならない。
しかし、スケジュールは大丈夫なのだろうか?本人は山形へ行き、そこから秋田に向かう。ただでさえアニメラマ「クレオパトラ」の追い込みが続いており、どう考えても無理がある。
「先生、復活編は『科学と生命』がテーマと伺っていましたが……」
と、石井が言いかけたときだった。
手塚は右手で机をバシンと叩いた。
石井は目を手塚の鼻に向け、黙って直立不動になった。手塚の鼻がピクピクと動いた。
「石井ちゃん。『トキワ荘物語』は競作といっても、トキワ荘そのものは、ボクがマンガ家のタマゴや新人を集めて今日の伝説になったわけでしょ?
だから読者は期待しますよ。誰よりも力を入れなければなりません。」
「手塚先生。そのとおりです。
マンガ家の宿になったのは、先生がトキワ荘に住んだことに発しています」
石井の言葉に手塚は頷いた。そしてゆっくりと言った。
「だから描きなぐったり、締め切りに追われて描くようなことはしたくないんです」
石井はその言葉の瞬間「ピーン」ときた。
手塚治虫一流の「原稿落し」だ。つまり、いろいろな理屈をつけて今回は原稿を描かないで次号に引き伸ばすことだ。
それは手塚治虫という大家だからこそ、自分が社長の出版社だからなせる巧妙な技であった。
コムの火の鳥はこれで何回も連載を休載していた。
「先生。コムは手塚治虫の『火の鳥』が創刊以来のメイン作品です。この一作を読みたくて購入している読者の多いことはご存知でしょう?先生は休載して、コムをまた返品の山にするつもりですか」
石井は語尾を強めて言った。
「まあまあ、石井ちゃん落ち着いてください。ボクの『火の鳥』も『トキワ荘物語』も休載するなんてひと言も言っていませんよ。
ボクが納得したものを描かなければ、読者は納得しないんです。だから、困っているんです。特に『火の鳥』は新作であり、連作の『トキワ荘』は他の誰よりも期待されるのはわかっていますからね」
ああ、困った、困った、と手塚はハムレットのように頭を抱えて、制作室を回り出した。
それを憮然とした顔で見ている石井だった。
「だまされないぞ!!」
(2007年 2月17日 土曜 記
2007年 2月18日 日曜 記
2007年 2月19日 月曜 記
2007年 2月20日 火曜 記
2007年 2月28日 水曜 記
2007年 3月 2日 金曜 記)
- ※この回の物語は作者の創作です。
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