18回 手塚プロ



 午後の日差しが強い東京の空は、スモッグで曇りがちだった。
 富士見台駅の改札口から、汗を拭き拭きコム編集長の石井文男が出てきた。
 駅前を少し歩くと左側のビルに駆け上がって行った。
 
 「手塚プロダクション」のドアを開けて入ると、一斉に事務所の中にいる男たちの目が石井に注目した。
 この男たちは各マンガ雑誌編集者で、いわゆる手塚番といわれる手塚マンガの担当者たちだった。
「やあ、こんにちは!暑いですねぇ〜」
 石井はサングラスを掛けたまま、顔を左右に振りながら挨拶をした。
 待合室の窓は全開してあったが、風がないせいかタバコの煙と汗の臭いが部屋中を覆っていた。
 編集者の数は六人だった。その内のひとりが立ち上がって石井に声を掛けた。
「石井ちゃん、お願いだよ。手塚先生が山形、秋田に行くってきかないんだよ!
アンタのところ(虫プロ商事・コム)の『ぐらこん』の大事な用件だとか言ってるよ。
でも、漫画集団の花笠踊りなんだろう?(山形に行かないように)なんとかならないかなあ」
 手塚治虫の原稿は「手塚番」といわれる担当編集者が、手塚を監視しているのが日常だった。マンガの連載に、アニメの制作と多忙の手塚は、原稿の締め切りを守らないで、落しかねない綱渡りの連続の中で原稿を描いていたからだ。
 
 東京から特急で片道五時間もかかる山形へ行き、さらにはもっと遠い秋田に向かうとなると、各雑誌の編集者からすればとんでもない「危機状態」なのであった。だから、出かける前に原稿をどう上げもらえるかが各出版社にとっては大きな問題となってくる。
 手塚のスケジュールは、手塚自身かマネージャーを通して、石井には入ることになっていた。しかし、手塚治虫は「手塚プロ」を含み三社の社長だったから、手塚の頭にある日程と現場の日程が噛み合わなく、いつもトラブルの連続だった。
 しかも、自分が社長をしており、「火の鳥」の連載をしているコムには、最後のトバッチリがくることが多かった。七月号の編集後記にも発売日の遅れや「火の鳥」の突然の休載や代替についてお詫びをしたばかりだった。
「調整をなんとか頼むよ!石井ちゃん!」
 という編集者たちの声をバックに、石井は制作室に入って行った。
 
 手塚治虫は三つの会社の社長をしていた。マンガ制作の「手塚プロダクション」、アニメーション制作の「虫プロダクション」、そしてマンガ雑誌や単行本の発行、それに版権管理をしている「虫プロ商事」だ。
 
 石井文男は、その「虫プロ商事」の月刊誌「COM」(コム)の編集長だった。
 このコムの目玉のマンガが手塚治虫自身の「火の鳥」であり、一九七〇年この年の第一回講談社出版文化賞児童漫画部門を受賞という手塚マンガ注目の作品だった。それだけに手塚も力の入れようが違っていた。
 その「火の鳥・鳳凰編」も今回で最終回だった。
 それだけに「コム」としても締め切りを守ってもらわなければならい。
 今回はもう一つの原稿があった。それは「連作・トキワ荘」だった。毎月交代で各マンガ家が描いていたが、今回は手塚の番だった。
 下手をすれば「火の鳥」と「トキワ荘」の両方が締め切りに間に合わなくなる。これでは読者の期待を裏切ることになってしまう。
石井らコム編集室ではオーナー手塚治虫に対して最大の気を遣っていた。そして誰もができることなら「手塚番」にはなりたくはなかった。

(2007年 2月17日 土曜 記
 2007年 2月18日 日曜 記
 2007年 2月19日 月曜 記)


※この回の物語は作者の創作です。
 手塚プロの外観は1970年当時に作者が撮影したものです。


(文中の敬称を略させていただきました)
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