回 素質開眼



井上のマンガはしばらく教室の後ろ壁に掲示されていた。

英語の時間だった。
「これから単語テストをします。
 いいですか、前回までに学習したものだから決してむずかしくありません。
 気軽に受けてください」
「ええ〜っ」

生徒たちが声を上げた。

教師の黒澤志郎が問題用紙を配った。
黒澤は白髪交じりのごま塩頭で黒ぶちのメガネを掛けていた。
痩せていて、骸骨が動いているようだった。
生徒がどうのこうのというより、常にマイペースだった。
不思議に生徒たちも大人しくしていた。
突然の豆テストに対しても声は上げるが、生徒たちは「黒澤先生だからなあ・・・」仕方がないと言って素直に従うのだった。
テストは静かに行われた。
黒澤は静かに骸骨が歩くように生徒の机の間を通るのだった。
黒澤は教室の後ろに行くと井上のマンガに気付いた。
何枚かのマンガをジッと眺めていた。
ずいぶん時間が経った。
それでも動かないでマンガを鑑賞していた。
生徒たちが次から次へとテストが終っていった。
黒澤は背を向けて動かないので、生徒たちは隣同士で話をはじめた。
「みんな、少し静かにしなさいよ!」
級長の色摩美子が言った。
その声にハッと我に返ったように黒澤が振り向いた。
「この絵を描いたのは誰かね?」
と、黒澤がみんなに訊いた。
誰かが「井上だよ」と答えた。
すると黒澤は井上の傍に行った。
「あなたの絵はすばらしいねえ。
 あなたがこんな絵を描くとは思いもしなかった」

井上は黙って顔を下げていた。
「マズイ・・・」
一瞬そう思った。
このマンガには黒澤先生もモデルになって登場していたからだ。
「黒澤先生、どうもすいません!」
井上は椅子に腰掛けたまま謝った。
「どうかしましたか?」
「黒澤先生も(マンガに)登場させました」
「よく描けていました。
 そっくりです。
 ありがとう」

黒澤がやさしく言った。
「あれだけ描けるのなら絵の勉強をして画家になったらどうですか?」
「が・か?」
「私の弟は画家です。
 弟も小さい時からよく絵を描いていたものです。
 あなたも絵が好きなら将来は画家になればいい」

井上は顔を上げて黒澤の顔を見た。
そして井上は訊きなおした。
「黒澤先生の弟さんは画家なんですか?」
「そうです。
 画家です。
 好きなことを職業にすることはとても大切なことです」
「なんでだべ(どうしてですか)?」
「人は生まれた時からいろんな環境に束縛されているもんなんです。
 私の青春時代は戦争だったり、米屋の息子は跡を継がなければならなかったり、多くの人はそういうもんだと受け止めたり、あきらめたりします。」
「・・・」
「でも、決まった職業がなかったり、食べられない家の子どもは自分で仕事を開拓していくしかないのです。
 その時に好きなことがあって、それを追求していけば職業になるかもしれないじゃないですか。
 あなたは親の仕事を継がなければなりませんか?」
「いいえ・・・」
「だったら好きな道に進みなさい。
 あなたは絵描きの素質があるかもしれませんよ」

校内にチャイムが鳴り響いた。

 

「最近、自分の行動がいろいろな形で周囲から評価されている」
井上はそう感じた。 

「少年ブック」の赤塚不二夫マンガ教室での入選。
「少年マガジン」「巨人の星」のテレビ放映記念主題歌募集の佳作入賞。
そしていずれも誌面に井上の作品が掲載された。
それを見た同級生からは
「マガジンに載っていた『井上はじめ』ってお前だよな?」
と質問を受けた。

それらの影響もあって、美術部の部長にも選ばれることになった。
井上は美術部に所属していたといっても、虚弱体質の体で学校生活の一日をようやく過ごしていたようなもので、部活はほとんど欠席していた。
それでも先輩で部長だった桑野博や刈田先輩がよく面倒をみてくれたから、美術部には籍を置いていたのだった。
それが三年生でいきなり部長とは本人が一番驚いた。

井上は二年生の終わりごろから校内で目立ち始めてきた。
少し壁新聞にエンタープライズ入港反対のマンガを描いたときには、あの大人しい井上が政治的な動きをしたのかと、校長の寒河江直らが問題視することもあった。
井上が目立ち始めることで、部員たちは井上を部長に押し上げることになっていった。
それからもう一つ、美術部顧問の教頭小林勇が転勤になることになり、井上は送別の額を贈ることを部員に提案した。
そして部員からお金を集めて額を贈ったことで部長に推薦する決定打になった。
井上はまさか部長になるとは思ってもいなかった。
しかし、同級生の寒河江や長沢純一らに押し切られた格好で引き受けてしまった。
「・・・部活にも満足に顔を出さないで、どうして部長なんだ」
そのとおりで、誰も美術部での井上の作品を見た覚えはなかった。
作品をあまり描かない美術部の部長誕生だった。
いつも井上は優柔不断て、自分の考えや意思とは反対の方向や結果になってしまうのだった。

そんな矢先、同級生の美智江が井上に声を掛けてきた。
「はじめくん!
 お願いがあるからお昼が終ったら、私の話を聞いてよ、わかったァ?」
「・・・え〜っ・・・」

井上はまた美智江に半強制的に用事を言いつけられるものだと思い、できるだけお願いは訊きたくはなかった。
「いいね!」
美智江はそう言って自分の席に戻った。

(2006年 9月16日 土曜 記
 2006年 9月17日 日曜 記
 2006年 9月20日 水曜 記)




(文中の敬称を略させていただきました)
暑い夏の日第7回

トップページ

第2部

第1部

懐かし掲示板に感想や懐かしい話題を書き込みをしてください。

漫画同人ホップのコーナーへ戻ります

トップページへ戻ります
inserted by FC2 system